すれ違いは昔から?大久保利通と西郷の本当の仲

西南戦争以前からライバルのような緊張感

2021/11/14 7:00

大久保利通と西郷隆盛はどのような関係だったのでしょうか(写真 : ペイレスイメージズ 2/PIXTA)

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。

しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。

大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第4回は、大久保と西郷の関係について解説する。

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<第3回までのあらすじ>
幼いときは胃が弱くやせっぽちだった大久保利通。武術はできずとも、薩摩藩の郷中教育によって後に政治家として活躍する素地を形作った(第1回)。が、21歳のときに「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動によって、父が島流しになり、貧苦にあえぐ(第2回)。ようやく処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に趣味の囲碁を通じて接近し、取り入ることに成功する(第3回

地道な手段で島津久光に近づいた大久保

「ここではない、どこかへ行きたい」

社会が乱れると、そんなエネルギーに満ちた若者たちがうごめき始める。幕末の世に、大久保利通と西郷隆盛という2人の傑物が生まれたのも、まさに乱世ならではといえよう。問題はいかにして、自分の名を上げるかである。

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先に世に出たのは、西郷のほうだった。自分と同じ下級藩士にもかかわらず、薩摩藩11代藩主の島津斉彬に引き立てられていく姿をみて、3歳年下の大久保利通は斉彬の弟、島津久光のほうに近づいていく。

身近な成功者を手本にするのは、それほど意外な話ではない。だが、方法論を思いついても、実際には行動に移さない人間がほとんどである。ましてや、行動を継続する人間となるとごく少数であり、大半があきらめてしまう。

だが、大久保は違った。「趣味の囲碁を通じて久光に近づく」という、あまりにも地道な手段を選び、成果を得られるまでやり続けた。その結果、見事に自分の存在を認知させることに成功している。

努力は積み重ねるものだが、結果は少しずつ出るものではなく、ある段階で、いきなり表面化する。それがゆえに、努力をしている途中では、自分のやっていることが、まるで意味のないことのようにすら思える。本当にこの方向で合っているのかと不安になってしまう。だから、地道な努力こそ続けることは、案外に難しい。

大久保にそれができた理由は明確である。それしか方法がなかったからだ。選択肢があれば、人は迷う。下級藩士の武士の家に生まれ、父が島に流された時期は食うことで精いっぱいだった大久保には、手持ちのカードが何もなかった。逆境からの一点突破。大久保にとっては、それが久光に接近することであり、全力を尽くしたからこそ、結果につなげることができた。

安政の大獄をきっかけに島流しになった西郷

文久元(1861)年、大久保は御小納戸役(おこなんどやく)に就任して、久光の側近に取り立てられた。32歳にして、異例の大抜擢である。さらに翌年には、御側役へと昇進。これまでのかすみがうそのように、大久保の視界は一気に広がることとなった。

大久保が飛躍しようとしていた、そのときに、先を走っていたはずの西郷はどうしていたかといえば、島に流されていた。きっかけは、幕府で大老に抜擢された井伊直弼による「安政の大獄」である。

背景を簡単に説明しよう。病弱な将軍である第13代将軍の徳川家定には、世継ぎが期待できない。そのため、聡明な一橋慶喜への期待が高まったが、井伊は次期将軍に紀州藩の徳川慶福を推す。そんな井伊の大老就任によって、将軍継嗣問題には決着がつき、家定の次には、慶福が将軍になることが決定。慶福は「徳川家茂」として、第14代将軍に就任している。

将軍の後継者争いは、いつでも敗れた側に厳しい。慶喜を将軍に擁立とした一橋派を、井伊は排除していく。また、井伊の開国路線に反対する、尊王攘夷派も取り締まった。

これがいわゆる「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧であり、西郷の運命をも変える。一橋派として薩摩と朝廷を結んでいた住職、月照が幕府から追われる身となったからだ。
  
「幕府に命を狙われている月照を保護してほしい」

そう近衛家から依頼された西郷は、月照を故郷の鹿児島に連れ帰ることにする。実は、斉彬の急死を受けて、ショックのあまり西郷は墓前で切腹しようと考えていた。そんな西郷の破れかぶれな自害を止めてくれたのが、この月照だった。西郷からすれば、月照は命の恩人ともいえる。

しかし、西郷が故郷に帰ってみたならば、鹿児島の雰囲気は一変していた。斉彬がいなくなったことで、父の斉興が再び影響力を持ち、藩内は一気に保守化。幕府を欺いて月照をかくまうなど、到底できることではなかった。

それどころか、薩摩藩からは西郷に、こんな非情な命令が下されることになる。

「月照を日向国に追放せよ」

日向国とは、現在の宮崎県と鹿児島県の一部のことで、当時は南部半分が薩摩領だった。だが、「日向国に追放」というのは、隠語である。実質的には「月照を道中で殺害せよ」ということを意味していた。

恩人を助けるつもりが窮地に追い込むことになってしまった。そのことに絶望した西郷は「もう死ぬしかない」と、日向国へ向かう舟の中で、月照を抱えて、海へと身を投げている。

その結果、月照は死去するが、西郷は一命をとりとめた。幕府の目から隠すために、西郷は奄美大島に流されることになる。西郷が島に流されたことで、大久保が若き政治組織「精忠組」のリーダーを担った。そして久光のもとで、大久保は同志たちとともに、力を発揮することになる。

影響力を持ちえたからこそ窮地に追い込まれた西郷

何と皮肉なことだろうか。無名だった大久保には、将軍継嗣問題など、まるで関係のないことである。だが、西郷は違う。すでに影響力を持ちえたからこそ、月照のような有力者とも深く関係し、そのことで結果的には窮地に追い込まれている。

大久保が薩摩藩でくすぶっているときに、すでに中央で活躍していた西郷。仲間の薩摩藩士から「大久保も江戸に来られるように、働きかけないのか」と聞かれたことがある。そのときの西郷の答えは前回の記事でも書いたが、西郷の島流しを踏まえて読むと、また違う印象を受ける。

「私の代わりは大久保しかいない。何かが起きたときに、2人とも江戸で倒れるわけにはいかないではないか」

西郷は、自分がすでに引き返せないところまで来ていると自覚していたのだろう。名を上げて、社会に影響力を持つということは、引きずり降ろされるリスクをもはらむということだ。

大久保がようやく上に上がったとき、上にいたはずの西郷は落ちてしまっていた。人生のめぐりあわせというものは、一寸先も読めないものだと改めて思う。

「運命をともにした竹馬の友」

西郷と大久保はそのように語られることがある。だからこそ、西南戦争で2人が対立したときに勝利した大久保は批判にさらされ、不人気ぶりに拍車をかけている。

だが、生まれた境遇や、立身出世を果たしたことは似ていても、2人はむしろ「すれ違っている」期間のほうが長い。そして3歳年の差がある2人は、兄弟のような屈託のない仲のよさというよりも、しのぎを削ったライバルのような緊張感が漂っていたのである。

西郷が戻ってこられるように久光を説得した大久保

側近に抜擢された大久保は、日本が抱える現状の問題点と今後の見通しについて、薩摩藩の同志である伊地知貞馨(いじち・さだか)にこんなふうに述べている。

「わが国はかつてない危機に直面している。朝廷は攘夷にこだわり、幕府には定見がないから、遠い未来を見据えた計画が立てられていない。だから今、有力藩が立ち上がらなければならない」

薩摩藩の藩主を奉じながら上京を果たし、朝廷の命のもと幕府を改革しなければならない。亡き斉彬の悲願でもある、この上洛プランを実現するためには、西郷の力が必要だと、大久保は考えていた。

西郷が島から戻ってこられるように久光を説得する大久保。得意とした粘り強い交渉が実を結び、文久元(1861)年、大久保が久光の側近に抜擢された年に、西郷は鹿児島へと戻ってくることができた。

西郷にとっては3年ぶりの鹿児島である。大久保からすれば、これでようやく2人で藩政を動かせると心躍ったことだろう。しかし、2人はまたすれ違うことになる。このときまだ大久保は、西郷という人物の底知れない「ややこしさ」を甘くみていたのであった。

(第5回につづく)

【参考文献】
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫彌『大久保利通伝』(マツノ書店)
松本彦三郎『郷中教育の研究』(尚古集成館)
佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家 (日本史リブレット)』(山川出版社)
毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(?中央公論新社)
河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』 (ミネルヴァ書房)
渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)

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