下級藩士「大久保利通」が西郷に倣った出世の極意

有力者に取り入るのが最初はうまくなかった

真山 知幸 : 著述家 著者フォロー

2021/11/07 7:00

大久保利通(左)と西郷隆盛(右)は、下級武士からどのように出世していったのでしょうか(左写真: iLand/PIXTA、右写真 : windybear/PIXTA)

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。

しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。

大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第3回は、大久保が薩摩の国父と言われた島津久光にどのように取り立てられたのかについて解説します。

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第1回:大久保や西郷を輩出「薩摩の超独特な教育」の凄み
第2回:嫌われ者「大久保利通」権力を欲し続けた納得の訳

なかなか解けなかった父の謹慎

木訥(ぼくとつ)とした人柄で器量が大きい西郷隆盛に、冷静沈着な策略家の大久保利通――。そんなイメージを持たれやすいが、大久保には意外な大胆さもある。

薩摩藩のお家騒動によって、父は島流しにされて、自身は謹慎生活を余儀なくされた大久保。貧苦にあえいだが、3年の月日が経って、ようやく許されることになる。

だが、髪は真っ白になり、やせ衰えた父は、別人のようだった。島流しにされる前、役人たちに「お前たち油断しないほうがいいぞ。私は隙を見て逃げるかもしれないからな」と言い放った血気盛んな姿は、孤島での過酷な生活でとうの昔に失われたようだ。

変わり果てた父の姿に、大久保は「こんな理不尽な目に2度と遭いたくない……」と立身出世を誓ったことだろう。

長きにわたる謹慎が解けたのは、島津斉彬が薩摩藩11代藩主の座に就き、お家騒動に終止符が打たれたからである。幕府の老中である阿部正弘が働きかけて、斉彬の父で前藩主の斉興は引退に追い込まれている。

しかし、斉彬が藩主になったのは、大久保の父が島流しにされてから、8カ月後のことだ。大久保としても斉彬が藩主となり、すぐに謹慎が解けることを期待したに違いないが、そこから実際に処分が解かれるまでに、実に2年半近くもの月日を要した。

藩主になったばかりの斉彬が、お家騒動の余波が収まるまで待ったのかもしれないが、それにしても長すぎるだろう。単に後回しにされて、忘れ去られていた可能性が高い。大久保家の苦境を思えば、あまりにひどい仕打ちである。

西郷の能力に目をつけて自分のそばに置いた斉彬だが、どうも大久保のことは、それほど評価していなかったようだ。西郷だけではなく、若手の人材が登用される中で、大久保はさほど恩恵を受けていない。

安政4(1857)年、大久保は28歳にして藩主の身の回りの世話をする「御徒目付」(おかちめつけ)の役に、西郷と同じく任命されたものの、相変わらず鹿児島で取り残されていた。年が違うとはいえ、西郷は4年前の安政元(1853)年に斉彬とともに江戸へ。将軍継嗣問題にも奔走し、すでに名を広く知らしめていたことを思えば、その差は歴然である。

大久保が江戸に呼ばれなかったのは、西郷の意図も働いていたようだ。国元にとどまっている大久保について、仲間の薩摩藩士から「大久保も江戸に来られるように、働きかけないのか」と聞かれたときに、西郷はこう答えている。

「私の代わりは大久保しかいない。何かが起きたときに、2人とも江戸で倒れるわけにはいかないではないか」

西郷が大久保をほかの誰よりも頼りにしていたことがわかるが、大久保にその真意は伝わっていたのだろうか。ひたすら権力に愛されたというイメージが強い大久保だが、この時点では藩の有力者にうまく取り入ったのはむしろ西郷のほうだった。

斉彬の死によって事態が一変

そんな中、名藩主としてその活躍を期待された斉彬が突然、亡くなってしまう。炎天下の軍事練習中に熱を出し、約1週間後に帰らぬ人となった。斉彬の死で事態は一変し、西郷と大久保の運命も大きく変わっていく。

斉彬の急死を受けて、西郷が己の命を絶とうとまで失望する一方で、大久保は斉彬の弟、久光への接近を図ろうと考えた。

しかし、これは一種の賭けでもあった。というのも、斉彬の死後、隠居に追い込まれた斉興の勢力が再び盛り返していた。久光の長男である忠義が藩主となったが、まだ19歳と幼かったため、実質的な藩政は斉興が掌握。緊縮財政を掲げた斎興は、亡き斉彬が進めた軍制改革をことごとく中止し、軍制の一部は古典的なものに戻すことさえしている。

また斉彬が亡くなる前に、江戸では井伊直弼による「安政の大獄」が開始された。次々と一橋派や志士たちが捕まえられ、処罰されていく。大弾圧の嵐に薩摩藩内は急速に保守化していき、斉彬が目指した幕政改革などはもってのほか、という沈鬱なムードが漂い始める。西郷が薩摩藩の行く末に失望して、自ら命を絶とうとまでしたのも無理はないだろう。

何かも大久保の思惑どおりにいったかに見えた。だが、政治というものは、次第に変わっていくものである。斉興が死んでもなお、重臣たちの勢力は強く、すぐに斉彬の頃のような革新的な藩政に戻るわけではない。

それでも、性急に結果を求めてしまうのは、いつの時代の若者も同じ。不満を募らせた誠忠組の中には、過激な行動に出ようとする者まで現れる。

大久保としては頭が痛かったことだろう。せっかく久光に近づいたというのに、同志が暴発しては水の泡である。

大久保が仕掛けた危険な賭け

そこで、大久保は大胆な行動に出る。久光の側近を通じて、同志の不穏な動きをわざと知らせて、こんなメッセージを送ったのだ。

「もはやこのうえは、藩主直々のお言葉をいただく以外、彼らを抑えきれません」

危険な賭けである。もし、久光の不興を買えば、処罰されてもおかしくはない。下手をしたら、大久保は「仲間を売った」と同志から責められる可能性もある。

慎重なはずの大久保は、焦りのあまりに暴走してしまったのだろうか。いや、そうではない。大久保は久光の状況もよく考えたうえで、勝負に出たのである。

久光はこれから権力を握る存在ではあるが、父亡き今もまだ、藩政を動かすほどの実権を握ることはできておらず、直属となる組織も持っていない。下級藩士たちを手なづけて、実行部隊にすることのメリットは大きいはず。また、薩摩藩内で騒ぎが起きれば、幕府からの締め付けも強くなってしまう。

そんな状況を踏まえたならば、久光は血気盛んな若者集団を押さえつけるのではなく、うまく利用する方向に動くに違いない……大久保はそう読んでいたのである。

はたして、実際はどうなったのか。久光は実子の藩主、茂久に筆をとらせて、誠忠組への呼びかけを行っている。

「余のいたらぬところを助けて、藩の名を汚さず誠忠を尽くしてくれるよう。ひとえに頼みたいと思う」

異例中の異例といえる、藩主直々の呼びかけである。誠忠組の過激派も涙に暮れたという。慎重さと大胆さは矛盾しない。そんなことを大久保の生き方は教えてくれているようである。

大久保が囲碁を学んだことに対する誤解

ただ、このエピソードは「大久保が久光に近づくために囲碁を初めて習った」と曲解されることがある。しかし、それは明らかに誤解である。嘉永元(1848)年1月4日、大久保は日記にこんなことを書いている。

「午後2時前、牧野が訪ねて来て3回勝負で囲碁を打ったが、私は負けてしまった」

「牧野」とは、大久保の従弟にあたる「牧野喜平次」のこと。このときに大久保は17歳なので、それなりに囲碁の経験があったことになる。大久保は数少ない趣味である囲碁を通して、久光に取り入ることに成功。本来、直に会えるような身分ではなかったが、高い壁を越えて、面会を果たすことになる。

ともに薩摩藩の権力者に積極的に近づいて引き上げてもらうことで、出世した西郷と大久保。何かと西郷と正反対だとされる大久保だが、むしろ西郷のやり方を見習い、名をあげたといえよう。

そして、慎重の上にも慎重を期しながらも……いや、慎重の上に慎重を期すからこそ、大胆な行動に出る傾向が大久保にはあり、ここが勝負どころだと判断すれば、西郷をもしのぐ行動力を見せたのである。

(第4回につづく)

【参考文献】
大久保利通『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫彌『大久保利通伝』(マツノ書店)
松本彦三郎『郷中教育の研究』(尚古集成館)
佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家 (日本史リブレット)』(山川出版社)
毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(中央公論新社)
河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』 (ミネルヴァ書房)
渋沢栄一著、守屋淳翻訳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)

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