大久保や西郷を輩出「薩摩の超独特な教育」の凄み

豪傑の礎は幼少期からのある訓練で築かれた

真山 知幸 : 著述家 著者フォロー

2021/10/24 9:00

幼なじみの大久保利通と西郷隆盛は、どんな教育を受けてきたのでしょうか(左写真:iLand/PIXTA、右写真:koro/PIXTA)

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。

嫌われ者の大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第1回は、大久保の受けた教育に迫ります。

弱々しくやせっぽちな少年だった大久保利通

「タケンツツボ」

大久保利通は、幼少期にそんなあだ名をつけられていた。意味は「竹の筒」。胃弱で弱々しく、やせっぽちだったからである。

いわゆる虚弱体質だった大久保は、その見た目どおりに武術が不得意だった。当時の薩摩藩では「郷中教育」(ごじゅうきょういく)という町内単位に分けた独自の青少年教育が行われている。武士の男子は6~7歳になると郷中に加入し、22~23歳ごろまでは、組織を抜けられなかった。

郷中では武術の訓練もあり、その結果、薩摩藩では勇猛な武士が数多く育成されている。大久保も郷中に属しており、槍を梅田休之丞に、柔術を海老原正蔵や叔父の皆吉金六に習った。

しかし、とてもじゃないが、稽古にはついていけなかったようだ。明治43(1910)年に刊行された勝田孫弥著『大久保利通伝』には、次のように記されている(現代語訳は筆者)。

「利通は幼少期から長身で痩せており、つねに胃を患い、15、16歳から数年間は、ほとんど武術をすることができなかった」

そのうえで「武芸は利通の長所ではない」とはっきり書かれている。

大久保はのちに、武闘派の幼なじみである西郷隆盛と組んで、革命を成し遂げる。2人は互いを補う関係にあったといえよう。

胃が弱く、やせっぽちだった大久保。だが、おとなしい少年というわけではなかった。いたずらが好きで大人を困らせることも多かったようだ。

大久保少年が、家族と入来温泉に訪れたときのことである。大久保はこっそりと熱泉の噴射口へ向かっては、湯をせき止めて水風呂にしたり、逆に、湯の温度を調節する水のほうをせき止めて熱湯風呂にしたりして、入浴客を驚かせた。ついには、砂や小石まで混ぜ始めて、いたずらが番頭に発覚。怒った番頭に追いかけられると、大久保は森へすばやく逃げ込んでいる。

また、桜島にある古里温泉を訪れたときには、こんなこともあった。案内人の彦作が「桜島では、山で溶岩石を投げると神罰が下る」と伝えると、大久保はわざと、頂上から岩を投げ落とし、みなが驚く姿を見て喜んだ。なかなか人を食った少年である。

その後は、彦作の労をねぎらおうと、大久保自身が薩摩汁の給仕を務めている。度を越したいたずらを反省したのかと思いきや、薩摩汁を何杯も何杯も彦作に与えては、困惑する姿を見て楽しんだという。

合理的な現実主義者の礎を築いた「郷中教育」

クールな印象が強い大久保も、少年時代は無邪気ないたずら坊主だった。ただ、神罰を恐れなかったことは、合理主義の政治家として名を馳せる、のちの姿を想像させる。

思えば、大蔵省で大久保とともに仕事をした渋沢栄一は、青年時代にインチキ祈祷師のうそを見抜いて撃退している。国家財政に対する認識の違いから、大久保と渋沢は決裂するが、合理的な現実主義者という点では共通していたといえよう。

腕力に乏しくいたずら好きの大久保は、明らかに「頭脳タイプ」である。ひたすら読書に励んで、学問にのめり込んでいく。

薩摩藩の郷中教育では、武術だけではなく、講習や習字、そして、軍書読みなども教え込まれた。なかでもユニークなのは「詮議」である。詮議とは、いわゆるディベートのこと。若手同士、もしくは、若手から年少者へ「問い」が投げかけられて、みんなの前で即答していくというものだ。

「君主の敵と、親の命を狙う敵がいた場合に、どちらの敵から切り込むべきか」

こういった「究極の選択」もあれば「義とは何か」という、根源的な問いもなされた。普段から多角的な視点で物事をとらえる習慣がなければ、即答することは難しいだろう。

詮議は、薩摩藩では歴代藩主の帝王学にも採用されており、島津家23代当主の島津宗信は幼少時代に教育係から、こんな詮議を受けている。

「あなたは親の敵を探して方々を尋ね回っている。そんなとき、海上で台風に遭って立ち往生していると、船を出して助けてくれた人がいた。ところがその命の恩人こそ、探し求めた親の敵だった。さてあなたは、どうしますか」

宗信は、助けられたことにお礼を言ったうえで「親の敵ゆえ是非もない。覚悟せよ」と断って討ち果す、と答えたという。この質問に正解はなく、とっさにどんな思考プロセスを経たのか、また、それをどう説明できるかが重要となる。

大久保もこの詮議で鍛えられて「政治家としての大久保利通」の素地を形作っていく。大久保は「組織をいかに運営するべきか」というリーダーシップの方法についても、郷中でもまれながら、身につけていったのではないだろうか。

17歳で公文書の作成を補助する役人に

勤勉さを評価されたのか、大久保は17歳のときに、藩の文書を取り扱う記録所で「記録所書役助(きろくじょかきやくたすけ)」の職を得る。公文書の作成を補佐する役人といったところだ。

一方の西郷も17歳のときに「郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)」という年貢を割り当てる仕事に就いている。西郷の背中を観ているだけに、大久保も自分なりの道が見つかり、ほっとしたことだろう。

しかし、大久保が21歳のときに、薩摩藩ではお家騒動が勃発。この騒動の影響で、父の利世は島流しにされてしまう。

大久保の運命は一転し、食べることすらもままならない、貧しい生活を余儀なくされることとなる。

(第2回につづく)

【参考文献】
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫弥『大久保利通伝』(マツノ書店)
松本彦三郎『郷中教育の研究』(尚古集成館)
佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家 (日本史リブレット)』(山川出版社)
毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(中央公論新社)
河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』 (ミネルヴァ書房)
渋沢栄一、守屋淳『現代語訳 論語と算盤』(ちくま新書)

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