戊辰戦争で「賊軍」と呼ばれた男たちのその後 【前編】

戊辰戦争と賊軍

今から約150年前の明治元年から明治2年まで、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩・長州・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(旧幕府陸軍・海軍)が戦った日本最大の内戦である「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」が勃発し、新政府軍が勝利した。

画像 : 鳥羽・伏見の戦い wiki c

その皮切りとなった「鳥羽・伏見の戦い」において、旧幕府軍が御所の方へ向けて発砲したことにより朝廷から「朝敵(ちょうてき)」とされる。

将軍であった徳川慶喜は、大坂へ敗走した後に船で江戸に逃げ帰り、隠居して謝罪と恭順の意を示し、旧幕府軍らに朝廷と戦わぬよう再三に渡り指示を行った。
しかし、旧幕府軍らは慶喜の指示を無視して朝廷と戦い「賊軍(ぞくぐん)」となってしまったのである。

賊軍とは、朝敵・逆賊・国賊などとほぼ同じ意味だが、朝敵や国賊という言葉が最少で一人でも成立する言葉に対して、賊軍は軍勢を率いて戦う規模の反乱として国家転覆を企む意図がある部隊を指す。

過去にはヤマト王権の土蜘蛛から始まり、平将門、平治の乱の源義朝木曽義仲、承久の乱の北条義時らが賊軍とされた。

戊辰戦争の前、幕末動乱の時期には長州藩が賊軍となったが、それを征伐に向かった慶喜と旧幕府軍(彰義隊・伝習隊・会津藩・庄内藩・蝦夷地共和国軍)らが戊辰戦争では逆に「朝敵・賊」となったのである。

深い傷跡を残しながら始まった新しい時代に、賊軍と呼ばれた人たちはその後どう生きたのか?

「賊軍」と呼ばれた旧幕臣・会津藩士・庄内藩士の男たちの戊辰戦争後の物語について、前編と後編に分けて解説する。

ある旧幕臣たちについて

静岡県の大井川を渡る世界一長い木造の橋「蓬莱橋」、徳川時代は江戸防衛のために橋の建設が許されなかった大井川に、この橋が架けられたのは明治12年だった。

そのきっかけを作った人物が、江戸城無血開城後に賊軍とされた徳川家のために尽力した 勝海舟(かつかいしゅう)である。

画像 : 勝海舟 wiki c

明治元年、勝海舟は徳川家とゆかりの深い駿府に、江戸を追われた旧幕臣らと共に下る。
その中には将軍・慶喜の護衛役だった200名ほどの「精鋭隊」がいた。

力を持て余していた彼らが働く場所を求めていた時、勝海舟は彼らに大井川の西にある牧之原台地(現在の島田市・牧之原市・菊川市にまたがる地域)の開墾を奨励する。
江戸時代、この場所はいわゆる草刈り場で未開拓の原野であり、台地ということで農業用水はもちろん生活用水の確保にも事欠いた場所であった。

彼らが作ろうとしたのは「お茶」である。当時は生糸に次ぐ重要な輸出品とされていた。彼らの子孫たちは今もこの場所でお茶を作っている。
勝海舟に「開墾せよ」と言われてお茶作りに励んだ者たちは、侍としての誇りに生きてきた徳川家臣団である。

彼らはキツネやタヌキしか住んでいないようなこの土地で、松の根っこを掘り起こすことから開墾を始めた。
刀の稽古を主に積んできた者たちには、とても辛くきつい労働であり、中には逃げ出す者もいた。
しかも牧之原台地の原野には住む家もなく、近くの医王寺という寺に寝泊まりして彼らは開墾を進めたのである。

画像 : 静岡の茶畑

やがて、医王寺はこの地で人生を終えていく旧幕臣たちの菩提寺となった。

明治11年、旧幕臣たちが待ち焦がれた日がやって来た。それは巡幸で静岡に立ち寄った明治天皇のもとに牧之原の指導者が招かれた日であった。
明治天皇は彼らを「報国殖産の鑑」と称えた。賊軍とされてきた牧之原の人々は感涙にむせんだという。

精鋭隊の血のにじむ努力からお茶の一大産地へと変貌した牧之原台地だったが、昭和に入るとその茶畑の一部である勝俣地区が軍の敷地として接収されてしまった。
その場所は大井海軍航空隊の滑走路となった。

戦争が終わると接収された人々はその土地を再び開墾しなければならなかった。
戦争によって金属類が接収された時代、当然重機などの大型な機械はなく、彼らはツルハシ1本で固い滑走路を打ち砕く作業を延々と行ったのである。

やがて、満州などからの復員兵たちが生きる場所を求めてこの地にやって来た。
新たな開拓者が増えたことで茶畑は再び広がっていった。

静岡のお茶は第二次大戦戦後、欧米などに大量に輸出され新たな国づくりを支えることになったのである。

ある会津藩士について

画像 : 松平容保 wiki c

明治元年9月22日、おびただしい犠牲者を出した末に新政府軍に降伏した会津藩、藩主・松平容保は、切腹を免れ謹慎となったが領地はすべて明治新政府の直轄地として没収された。

賊軍となり領土を失った会津藩士らは翌年、お家の再興を許され転封先として「猪苗代町」と「斗南(現在の青森県むつ市)」を新政府から提示され、最終的に「斗南」を選び、旧会津藩士4,700余名は移住して「斗南藩」と改めた。

しかし現在の青森県の東部、下北半島の斗南は、強風が吹きすさむ寒冷地で土地が痩せており、とても米が作れるような場所ではなかった。
そんな場所に旧藩士とその家族、合わせて1万7,000人を超える人々が追いやられたのである。

ほぼ刀しか持たなかった藩士たちは、過酷な地で何ができるのか不安で一杯だったはずである。

斗南国と呼ばれた一帯を中心に開墾が始まったが、やはり作物はほとんど育たず、人々は海藻やワラビの根で飢えを凌いだ。
それでも最初の冬を越せず、餓死や凍死する者たちはおびただしい数になったという。

廃藩置県が実施されると、斗南藩の人々はやっとこの地獄から解放され、斗南に残る者、会津に戻る者、北海道に渡る者、東京に移住し軍隊や警察に入る者などに分かれた。

斗南に残った者たちは、会津戦争から33回忌を迎えた年にようやく慰霊碑を建てることができたという。
斗南の地に残った者たちはおよそ50戸、その中から教育や政治の分野で活躍する人たちが生まれた。

下北半島に根を張り、新たな故郷のために力を尽くしていった人たちがいたのである。

コメント