明治時代、数々の政敵を葬り去った冷血漢・大久保利通の意外な一面「すべてはこのひとときのため」

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歴史・文化 / 人物

角田晶生(つのだ あきお)

2021/10/07

幕末維新の元勲として新政府において強権を奮い、江藤新平(えとう しんぺい)や前原一誠(まえはら いっせい)、そして西郷隆盛(さいごう たかもり)と言った政敵・不平士族たちを次々と葬り去った大久保利通(おおくぼ としみち)

大久保に葬り去られた政敵たち。山崎年信「大日本優名鏡 西郷隆盛 江藤新平 前原一誠」

日本国が古き武士の世から脱却し、新たな帝国主義世界へ雄飛するため「生みの苦しみ」と評価する声もある一方、権力の私的濫用など批判の声も少なくありませんでした。

江東醜体笑止ナリ……悪役これに極まれり

「江東(えとう。原文ママ)陳述曖昧実ニ笑止千万 人物推而(おして)知ラレタリ……」

【意訳】逮捕された江藤はうろたえてまともに陳述もできぬそうだ、ザマぁ見ろ、まったく笑いがとまらぬわい……

「江東(こちらも原文ママ)醜体笑止ナリ、今日ハ都合ヨク済ミ大安心……」

【意訳】とうとう江藤が処刑された。ザマぁねぇな、これで(口封じは成功。わしらの汚職も摘発されず)一安心じゃわい……

これらの記述は大久保の日記ですが、かねてより政治的に対立していた江藤に対して、わざと「江東」と漢字を間違えるなど、いかにも「嫌なヤツ」感たっぷりですね。

ちなみに斬首された江藤の生首写真を印刷し、各地にばらまかせたのも大久保の指示。
政敵とは言え、死者に対する辱めに、心ある日本人は心を痛めたと言います。

そんな日本国民の怨嗟を一身に受けた大久保は明治11年(1878年)5月14日、東京府麹町区紀尾井町清水谷(現:東京都千代田区)で旧加賀藩士の島田一郎(しまだ いちろう)らによって斬殺されました。

大久保の死骸は全身16か所の傷を受け、うち8か所は頭部への斬撃。

また首へは地中深く刀が突き立てられ、緊急事態に駆けつけた前島密(まえじま ひそか)は
  「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶(なお)微動するを見る」
  【意訳】肉は飛び散り骨もズタズタ、頭の傷からむき出した脳髄が、まだビクビクと動いている……
と生々しく表現。人々の怨みがいかに深いものであったかが察せられます。

権謀術数の限りを尽くして権力の頂点を極めた大久保の無残な最期を知り、維新に失望していた者たちは大いに湧き立つと共に、武力による世直しの限界を悟り、自由民権運動の時代に突入していくのでした……。

すべてはこのひとときのため……冷血漢の意外な一面

さて、そんな「悪役」大久保利通ですが、これが我が家の中では、少し違った顔を見せたようです。

「じゃあ、お父様は仕事に行ってくるからね」

大久保は子煩悩だったそうで、特に一人娘の芳子(よしこ)を毎朝出勤前の短い時間、抱き上げては可愛がりました。

大久保利通。家庭では、どんな顔で子供たちと向き合ったのだろうか。Wikipediaより

「……お父様、煙草の匂い嫌~!(※大久保はヘビースモーカーでした)」

また、夜遅くに大久保が帰宅すると、

「「「お父様、お帰りなさ~い!」」」

男の子たちが先を争ってお出迎えにきて、大久保の靴をこれまた争うように脱がせ、時おり勢い余って後ろへ転げてしまう、なんてほほえましい光景もあったそうです。

平日は多忙な公務で帰りが遅く、家族と一緒に食事することもできませんが、土曜日の夕食はちょっと特別に家族みんなで食卓を囲みました。

この団欒のひととき、家族の笑顔を守るためだからこそ、わしは日本の未来を切り拓くべく、鬼にも修羅にもなれようと言うものだ……)

そんな意外な一面が人々に知られていたら、大久保の末路は少し違ったものになったでしょうか……それとも「家族にばかり甘くて、天下万民には慈悲のない冷血漢だ!」と非難されたでしょうか。

いずれにしても、死んでしまえばみな仏。あの世では政敵たちとも和解し、家族みんなと団欒を楽しんで欲しいものです。

※参考文献:

  • 勝田政治『政事家大久保利通』講談社、2003年7月
  • 佐々木克『大久保利通』講談社学術文庫、2004年11月

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