西郷も下痢気味だったが…持病の下痢に悩まされた大久保利通

2021/10/18

 

清水 照美 2021.10.18 (※画像はイメージです/PIXTA)

大久保利通は、西郷隆盛と同じ薩摩藩の武士で、幕末から明治にかけて活躍した人物です。
盟友だった西郷と協力して、倒幕運動を展開しましたが、明治になると意見が衝突するようになり、ついに決別します。

西郷は人望があったため、西郷を自刃に追いやった大久保には、悪いイメージがつきまとっていますが、大久保は私利私欲を度外視して、明治政府のために尽くしました。
大久保の生涯を追いながら、彼の功績を見ていきましょう。

大久保利通とは

大久保利通は、文政13年8月10日(1830年9月26日)に、現在の鹿児島県鹿児島市高麗町に生まれました。
家格は西郷隆盛と同じく、御小姓与と呼ばれる下級藩士です。

幼少期に、現在の下加治屋町方限に移住し、ここで西郷と出会います。
大河ドラマ「せごどん」では、大久保と西郷は隣どうしとして描かれていましたが、実際は700メートルほど離れていました。

意気投合した2人は、お互いの家を行き来して、親しく交流していたのでしょう。
大久保は生まれつき胃腸が弱かったため、剣術は得意ではありませんでしたが、その代わり学問は飛びぬけて優秀でした。

西郷も、少年時代に腕の筋を切ったために剣が握れなくなり、勉学に励むようになります。
このように、盟友といわれた大久保と西郷は、剣が不得手で学問に励んだところまで似ていました。

残念なことに、大久保には悪いイメージがありますが、大久保は金銭に潔白で、私財を蓄えることをしませんでした。
それどころか、明治政府の予算が足りない分は、大久保が私財を切り売りして、用立てていたのです。

そのため、大久保が死んでもほとんど財産は残されておらず、8千円(現在の価値で約2億円)もの借金が残っていたほどです。
大久保の所有する財産は、すべて抵当に入っていましたが、大久保が潔癖なことを知っていた債権者たちは、遺族に返済を求めなかったと言われています。

発足したばかりの明治政府は、財政難にあえいでいました。
そこで、江戸時代まで使われていた太陰暦を、明治政府は太陽暦に変えました。

これは近代化の一環として、古い慣習を改めるために行われたのではありません。
太陰暦は12カ月ではなく、13カ月ありました。

つまり、太陰暦のままだと、政府の職員に、年に13回給料を払わなければなりません。
ところが、太陰暦を太陽暦に変えれば、給料を1カ月分減らせるので、太陽暦が採用されたのです。

つまり、発足間もない明治政府は、それほど財政難だったのです。
大久保が、明治政府のために私財を投げ売ったのには、こういった事情があったのです。

下痢に悩まされる

幼い頃から胃腸が弱かった大久保は、常に下痢に悩まされていました。
明治政府の重鎮になってからも、下痢の悩みは解消せず、大事な会議の前などは特に下痢がひどくなったようです。
西郷も下痢気味だったということですが、職務の重責によるストレスが原因で、下痢の症状を起こすこともあるのでしょうか。

大久保利通の功績

大久保利通は、西郷隆盛と並ぶ明治新政府樹立の立役者ですが、具体的にどんな功績があるのでしょうか。
大久保の功績として特に評されるのが、版籍奉還と廃藩置県でしょう。

江戸時代には、日本国内に約300もの藩がありました。
各藩はそれぞれ自治権を持っていたので、日本の中に300もの国があるのと同じ状態でした。

このままでは日本として、1つの国にまとまることはできません。
そこで大久保は、各藩の藩主に版籍奉還させ、領地を国に返して藩を廃し、県を置くことにしました。

これが版籍奉還・廃藩置県です。
大久保はまず、木戸孝允と結託して、薩摩、長州、土佐、肥前の4つの藩主に、版籍奉還するよう促しました。

4つの藩主はこれに従ったので、他の藩主も次々に版籍奉還して、廃藩置県が進みました。
明治政府はこれを受け、各藩の藩主を知藩事に任命して、自治にあたらせました。

元藩主が知藩事を務めたのでは、旧態依然として変わらないことになります。
しかし、廃藩置県をすることによって、元藩主は領地を失い、天皇中心の中央集権国家が誕生します。
ここまできて初めて、元藩主や士族たちが「だまされた」と思うようになり、大久保は士族たちの恨みを買うことになったのです。

岩倉使節団が分岐点

大久保にとって最大の不幸は、西郷と決別したことでしょう。
これによって、大久保も西郷も、運命が狂ってしまったと言っても過言ではありません。

そのきっかけとなったのが、大久保が岩倉使節団の1員として、欧米を外遊したことでした。
西洋の進んだ技術を目の当たりにした大久保は、かなりの衝撃を受けたようです。

その結果、「日本は当分の間、外国と戦争すべきではない。
まず国力を高めることが先決である」という結論に達します。

ところが、日本に帰ってくると、西郷が征韓論を主張しました。
西郷は武力で、朝鮮を抑え込もうと考えたのです。

ここで、両雄は真っ向から衝突することになります。
その結果西南戦争が起こり、西郷は自刃し、大久保は不平士族に惨殺されてしまったのです。

幼い頃から胃腸が弱かった大久保の下痢は、政府の要職に就くようになると、さらにひどくなりました。
要職に就けば、かなりのストレスがあるものと思われますが、下痢はストレスによって悪化するものなのでしょうか。

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