西郷隆盛だけじゃない!? 薩摩で男色が盛んになったワケ

山口 志穂

オトコたちの中世日本史-第12回-

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男らしい「九州男子」のイメージが強い西郷隆盛ですが、男色、しかも相手との心中未遂事件を起こしています。その背景には薩摩における極端な女性忌避があるようです。

今でも多くの日本人に愛される西郷隆盛。男らしさの象徴というイメージのある西郷どんが、お坊さんとの心中事件を起こしていることはご存知でしょうか? あまりイメージにない西郷どんの男色、その背景には薩摩における極端な女性忌避があるそう。自身を「オカマ」だと公言する山口志穂氏が、日本史の新しくて興味深い部分を語る!

西郷どんの男色の相手は正反対!?

幕末維新のヒーローであり、今でも多くの日本人に愛される男が、薩摩の西郷隆盛です。そんな西郷は、1858年に心中未遂事件を起こしています。

▲西郷隆盛 出典:近世名士写真 其1/1934–1935(ウィキメディア・コモンズ)

心中のお相手は月照というお坊さんでした。月照の容貌について、『成就院忍向履歴』には「其身短小、中肉、顔色青白く眉長し、恒に藤色衣を着す」[友松圓諦『人物叢書 月照』吉川弘文館/1961年]とありますから、西郷の容姿とは真逆と言ってもよいでしょう。男と女の心中ではありません、男同士の心中です。しかし、西郷は蘇生し、月照のみが亡くなりました。

▲月照 出典:幕末・明治・大正 回顧八十年史/1933-1934(ウィキメディア・コモンズ)

維新が成されて6年後の1874年、月照の十七回忌に西郷は次のような漢詩を送ります。

相約して淵(ふち)に投ず 後先無し豈図(あにはか)らんや波上 再生の縁(えにし)
頭(こうべ)を回(めぐ)らせば 十有余年の夢空(むな)しく幽明を隔てて 墓前に哭(こく)す

「私たちは相約して心中しましたが、思いがけず私だけが助かってしまいました。思えばあれから10年以上経ちましたが、それはまるで夢のようです。この世とあの世を隔ててお逢いできないのはなんとも悲しく、墓前で泣き伏すのみです」というような意味となります。

幕末、倒幕の中心となったのが薩長土肥と呼ばれる、薩摩・長州・土佐・肥前の雄藩でした。

そのなかで、多くの男色研究の先達たちが共通して挙げるのが薩摩の男色です。

岩田準一は『本朝男色考』で「明治の御代は……薩摩隼人の男風が何時しか浸潤していた」と言っていますし、稲垣足穂は『少年愛の美学』で「〔男色は天保の改革以後〕、衰退の途(みち)を辿っていたところ、明治維新となって、四国九州の青年らによって彼らのお国ぶりが、京都や東京にもたらされた」と言っています。

さらに、オーストリア人民俗学者のフリードリッヒ・S・クラウスは『信仰、慣習、風習および慣習法からみた日本人の性生活』で「とくにこの愛(男色)は日本の南部の諸国では蔓延している。今でもなお、これらの国ではそれが存続している。とくに薩摩の国では、九州の他の国のように、さかんである」と言っているのです[フリートリッヒ・S・クラウス、安田一郎訳『日本人の性生活』青土社/2000年]。そこで、ここからは薩摩の男色について見ていきましょう。

ストイックな女性蔑視から生まれた薩摩の男色

薩摩の武士は「薩摩隼人」と呼ばれます。なぜ薩摩隼人と呼ばれるのかと言うと、『古事記』には、天孫ニニギノミコトとコノハナノサクヤビメの間に生まれた海幸彦(ホデリ)と山幸彦(ホオリ)の兄弟が争って山幸彦が勝ったとあります。そして敗れた海幸彦は「僕は今より後、汝命の昼夜の守護人となりて仕え奉らむ」とあります[次田昌幸『古事記(上)全訳注』講談社/1977年]

山幸彦の孫が初代神武天皇であり、海幸彦が隼人族の祖とされますので、要するに、隼人族は皇室の警護を任せられていたとなりますから、当然、隼人族は勇猛果敢な人たちであったわけです。そして、薩摩の武士は隼人族のように勇猛果敢として、薩摩隼人と呼ばれるようになるのです。

こうした勇猛果敢な薩摩隼人を率いたのが島津家で、鎌倉時代から明治維新まで、その大部分の期間を薩摩の地に根を下ろし続けました。薩摩隼人の強さは、戦国時代には九州統一目前までいったことや、唐入り(いわゆる朝鮮出兵)での活躍、そして関ヶ原での島津の退き口でも証明されています。

▲島津貴久像 出典:尚古集成館蔵(ウィキメディア・コモンズ)

島津家は、いかにして勇猛果敢な薩摩隼人を統率したのでしょうか? それは15代当主・島津貴久の作った外城制(地頭・衆中制)にありました。外城制とは、領内の各地に上級武士(地頭)を置き、その下に中級下級武士(衆中)を配置し、そしていざというときには、地頭の命令で、平時には半農半士の衆中たちが集結して戦闘員として、事に当たるというシステムでした。

薩摩は関ヶ原での敗戦を経ても、巧みな外交術で領土の削減もなく江戸時代を迎えます。しかし、1615年の一国一城令のあとも外城制をやめることができませんでした。なぜかと言えば、他藩は武士の比率が5~7パーセントだったのに対し、薩摩は武士の比率が30パーセント近くを占めていたことで、一つの城下町に武士を丸抱えできないという事情があったからです。その後、徐々に地頭たちは鹿児島城下に移り、衆中は郷中と呼ばれるようになります。

武士の子弟のことを薩摩では兵児(へこ)と言い、郷中のなかで数百人単位で作られた青少年の防衛組織を兵児組(へこぐみ)と呼びました。小説やドラマでもお馴染みの「郷中教育」は、こうした環境のなかで、二才(にせ)と呼ばれる元服して結婚するまでの14、5歳~24、5歳の年長者が、稚児と呼ばれる6、7歳~14、5歳の元服前の年少者たちを教育する青少年による教育機関でした。

先程、外城制をやめることができない理由を、薩摩は武士の比率が極端に高かったからと言いましたが、それと共に、肥後(熊本県)の加藤清正が薩摩に“にらみを効かせていた”という事情もありました。そうすると、当然、その国境の兵児組の郷中教育は厳しさを増すわけです。

郷中教育においては、とんでもないスパルタ教育が行われていました。それに加えて薩摩隼人には、極度の女性忌避がありました。『薩藩士風考』にはこうあります。

路上女子ニ逢ハバ穢ノ身ニ及バンコトヲ恐レテ途ヲ避ケテ通ル

「道を歩いていて女性に会っただけで、女性は穢れているからと避けて通っていた」と言っているのです。

では、そんな女性を少しでも見てしまうとどうなるか? 平戸藩の9代藩主・松浦静山の『甲子夜話』には「道ですれ違った女性を少しでも盗み見ただけで、自殺を強要された」とあります。そして、それに同情しただけでも、その者を夜中に首の骨を折って殺したとか……。そうなるとどういうことが起こるのか? 『甲子夜話』にはこうあります。

婦女を禁ずるは斯くの如ごとしといえども、男色を求め、美少年を随伴し、殆ど主人の如し

スパルタ教育に加えて、極端に女性を忌避するのですから、その性のはけ口は、男色に向けられるのは当然でしょう。しかも、極度の女性忌避になれば、それは平安時代にお坊さんたちが稚児を神格化させた「稚児信仰」と同様になることも、また然りであるわけです。だからこそ薩摩隼人たちは、美少年をご主人様であるかのように敬ったのだと言えます。それはさらにエスカレートしたようで、『薩摩見聞記』にはこうあります。

昔時此風の盛んこれなるや、美少年を呼ぶに稚児様を以てし、其出る時は或は美しき振袖を着し数多の兵児二才之を護衛し傍よりは傘をさし掛け、夜は其門に立て寝ずの番を為す者あるに至る

もうここまでくれば、これは新たな薩摩隼人たちによる稚児信仰であると断言しても差し支えないでしょう。薩摩の男色は、郷中教育でのストイックな環境と、女性蔑視と言っても過言ではない女性忌避思想から生まれたのです。

▲入来麓武家屋敷 出典:ブルーインパルス / PIXTA(ピクスタ)

何度も男色で狼藉をはたらいていた板垣退助

四国にあった土佐は、南に太平洋があり、ジョン万次郎や坂本龍馬を輩出するような開放的な面を持ちながら、北には四国山地が囲むので、昔から流刑地であった歴史もある閉鎖的な側面も持っていました。そして、太平洋からはクジラがやって来ます。このクジラを獲るためのエサが子犬でした。

そのような環境では、徳川綱吉が出した「生類憐れみの令」もすぐに破られて、大々的な犬狩りが行われました。その名残が闘犬です。

土佐では、死の穢れを説く仏教は普及しにくくなりました。そして事実、文化庁の『宗教年鑑 平成26年版』(文化庁/2015年)を見ても、現代でも高知県における仏教徒は西日本では断トツで低く、全国で見ても下位にあります。

そうなるとどういうことが起こるのかと言うと、仏教の影響が薄い土佐においては、来世を共にしようとは思いにくいので心中事件が少なくなります。そして現世のことは現世で解決しようとなりますから、もし解決できないとわかると、自分の身を捨ててでも相手を傷つけようとする、つまり刃傷事件が多くなるわけです。

このような環境での男色がどうなるかについて、宮武外骨が『美少年論』に書いています。

若し強いてこれを排斥し、男色の接近を避ける者があると、同儕相集つてその家に押しかけて行ってその家の子弟をつかまえて強いてこれを犯す。隣室に父母兄弟がいてもこれを顧慮しない。父母兄弟また甘んじて彼らの横恣に委して顧みないのである
[「宮武外骨の『美少年論』」]

要するに、男色を嫌がる者がいたら、仲間で集まって嫌がる者の家に押しかけて、その家で捕まえて犯すのです。家に押しかけるのですから、そこには犯されている少年の家族がいますが、隣室で息子が犯されていても、家族は一切手出しできないのです。

しかし、少年のなかには訴える者もいます。こうしたとき、判決文には女色の場合は「柔弱の交わり」と書かれ、男色の場合は「狼藉」と書かれました。そして『御家中変儀』という土佐藩の刑罰記録を見ると、柔弱に比べれば狼藉の方が多く記録されています。そして、自由民権運動の板垣退助も、何度も狼藉を働いて処罰されています[平尾道雄『平尾道雄選集 第二巻 土佐・庶民史話』高知新聞社/1979年]

▲板垣退助  出典:個人所蔵品(ウィキメディア・コモンズ)

こうした狼藉が多発する理由とすれば、土佐では遊廓は禁止され、陰間茶屋も存在しなかったこともあります。ちなみに薩摩の場合は、江戸の薩摩藩邸近くの芝神明(現在の東京タワー辺り)の陰間茶屋をお得意様にしていました。こうしたところが、西郷の心中未遂と合わせて、薩摩と土佐の男色の違いとなるでしょう。

薩摩と土佐に並んで倒幕の中心となる長州には、男色の記録はほとんどありませんが、長州における精神的支柱となった吉田松陰の松下村塾で、高杉晋作と並んで双璧と呼ばれた久坂玄瑞は、日記の中で土佐の男色について書いていますから、強力な軍隊育成のために、玄瑞は土佐の男色を見習おうとしていたのかも知れません。

※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。

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