大久保利通が青ざめた「西郷隆盛」衝撃暴言の内容

実は理詰めで考え、納得しないと動かぬ頑固者

真山 知幸 : 著述家

2021/11/28 11:00

豪胆なイメージがありますが、実は緻密で繊細だったようです(写真:PhotoNetwork/iStock)

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。

しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。

大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第6回は、島流しから戻ってきた西郷に翻弄される大久保のエピソードをお届けする。

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<第5回までのあらすじ>
幼いときは胃が弱くやせっぽちだった大久保利通。武術はできずとも、薩摩藩の郷中教育によって後に政治家として活躍する素地を形作った(第1回)。が、21歳のときに「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動によって、父が島流しになり、貧苦にあえぐ(第2回)。

ようやく処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に趣味の囲碁を通じて接近し、取り入ることに成功(第3回)。島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように久光を説得し、実現させた(第4回第5回)。

西郷のようにうまく立ち回れなかった大久保

新たな挑戦に失敗したときほど、己の非力さを痛感するものだ。大久保利通の場合も、そうだった。

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自分より先を走っていたはずの西郷隆盛が、中央の政治にかかわったがゆえに失速。島流しにされると、代わりに大久保が若き薩摩藩士のリーダーとなって、島津久光の側近へと取り立てられた。

かつて薩摩藩第11代藩主の島津斉彬に引き上げられた西郷と同じ出世ルートをたどった大久保だったが、西郷のようにはうまくやれなかった。かつて西郷が補佐した斉彬は、薩摩藩から京に上り、朝廷と幕府を結ぶ役となることで、幕政改革を促そうとしていた。それほど幕府の弱体化が著しかったからである。

だが、志半ばで斉彬は病死。弟の島津久光がその遺志を継ぎ、上洛を計画する。計画の具体的な目的は「久光が兵を率いて上洛して京に滞在し、勅命を得たうえで朝廷の守衛になること」。いわば、朝廷のガードマンを務めながら、幕政に影響を及ぼそうというわけである。

文久2(1862)年の正月、初めて京に上った大久保の事前工作は、ことごとく失敗に終わる。公家の近衛忠房からは上洛計画に難色を示されて、薩摩藩内や薩摩藩江戸屋敷からも反対の声が上がる始末だった。

もちろん、西郷のときとは状況がまるで異なる。西郷が擁する斉彬は藩主だったが、大久保が担ぐ弟の久光は「藩主の父」にすぎず、官位もない。つまりは、無位無官である。藩から一歩外に出たならば、影響力は皆無であり、大久保の京での下準備が不発に終わったのも、当然と言えば当然の結果である。

しかし、大久保はそんな言い訳を己にして、心を慰めるような男ではなかった。久光がいたからこそ、自分は今、京という舞台にいる。その久光を押し出すことができずにどうする……と自分を責めたことだろう。

こんなエピソードがある。久光に近づくことで、大久保が得た「小納戸頭取」というポストは、槍持ちを連れて登城することができた。だが、大久保はそんなアピールにはまったく関心がなく、人通りの少ない細い道をわざわざ選んで、登城していたという。大久保がこだわったのはポストに就くこと自体ではなく、ポストを得ることで行使できる「実行力」だった。

改めて西郷という男の実力を実感

そんな大久保だからこそ、京での挫折は苦い経験となったに違いない。かつて、同じ京の地で西郷は東奔西走して、存在感を発揮していたというのに……。改めて西郷という男の実力を、大久保は実感したことだろう。

だが、大久保は高い壁を前にしても、絶望しなかった。いや、正しく言えば、「自分の能力」には絶望したかもしれないが、「自分を取り巻く状況」には絶望しなかった。まもなく西郷が島から戻ってくる。この挫折は西郷の華々しい復帰にはむしろプラスになると、大久保は考えたのだ。

「やはり、上洛を成功させるには西郷の力が必要です」

自分にはできない――とまでは口にしなったが、実質的にはそう言っていた。

ちっぽけなプライドは捨てて、大局観を持って物事を前進させる。少なくとも西郷が相手ならば、このときの大久保はそうした態度がとれた。大久保の主張を前に「西郷の帰藩を許したのは正しかった」と、久光もこのときは思えたことだろう。

そんな経緯があっただけに、満を持して鹿児島に帰ってきた西郷が、久光の上洛計画に大反対したのは、大久保にとって大きな誤算だった。京に出発しようとする10日前のことだ。西郷は目の前にいる久光に計画実行の延期を訴えたうえで、こんなことまで言った。

「どうしても行かねばならないのならば、京都には寄らずに直接、海路で江戸に向かってはいかがでしょうか」

久光からすれば、屈辱的だったことだろう。兄の斉彬のときには協力した西郷に、そんな提案をされるのは「お前は京では相手にされない」と言われているに等しい。久光は西郷の案を即座に却下している。

だが、西郷からしてみれば、それこそが本意である。「官位を持たず藩主でもない久光には、中央政局で発言する資格すらなく、相手にされない」というのが、西郷がこの計画に反対する最大の理由だった。

それでも相手の微妙な反応を察すれば、人は「そういうことじゃありませんよ」とついフォローしてしまうものだが、西郷は違う。ぼかしても伝わらないなら、とあまりにストレートすぎる表現で、久光に自分の思いを伝えた。

「あなたのようなジゴロ(田舎者)に、斉彬公の代わりは務まるはずもない」

大久保は青ざめたことだろう。実は、この場を迎えるまでに、西郷が久光の上洛に反対であることは、すでにわかっていた。大久保の屋敷で、喜びの再会を果たした2人だったが、久光の上洛計画に話が及ぶと、西郷は断固として反対の姿勢を崩さなかった。

意外なほど理詰めで物事を考える西郷

どちらかというと「大久保は緻密な性格で、西郷は豪胆な性格」というイメージを持たれやすいが、実際はそうとも言い切れなかった。「とにかく少しでも前進したい」と実効性を重視する大久保は、時に理屈より行動を優先するところがあった。

一方の西郷はといえば、意外なほどに理詰めで物事を考える。腹落ちしなければ、動かない。そんな頑固さは大久保にもあったが、実は西郷にもみられた傾向だった。

思わぬ反対に遭って困った大久保は、薩摩藩士の小松帯刀が住む屋敷に場所を移し、西郷の説得を試みる。このときに薩摩藩士の中山尚之介も同席している。

だが、西郷の意見は変わらなかった。それどころか、「有力な縁故者はいるのか?」「老中が承諾する見込みはあるのか?」と西郷から計画の甘さを、どんどん突っ込まれてしまう。

大久保らが「その方面にはまだ手をつけられていない」と答えると、西郷はこう畳みかけている。

「たとえ朝廷から勅命が出たとしても、打ち出した幕政改革に幕府が応じなければどうするのだ。朝廷の面目は丸つぶれだ。多くの兵士を京にとどめたうえで、京都所司代を追放することになるが、そこまでの覚悟はあるのか?」

大久保、小松、中山はみな黙ってしまったようだ。「一言の返答もでき申さず」と西郷自身が振り返っている。

大久保からすれば、西郷を島から戻すことを第一に考えたのかもしれない。だが、実際に京で奔走した西郷からしてみれば、あまりにも詰めが甘い計画で、うまくいくとは思えなったようだ。

西郷の「ジゴロ」発言は、久光を面罵した言葉としてよく知られている。だが、そこには、あまりにずさんな計画を実行しようとする、大久保らへのいら立ちも、含まれていたのではないだろうか。

西郷の暴言によって、場が騒然としたことは言うまでもない。久光は怒りのあまりに我を失いそうになった、とも伝えられている。西郷の復帰を原動力に計画を遂行しようという、大久保の目論見は、台無しになったかのように見えた。

「ほんの一歩でもいいから前進」が大久保の真骨頂

それでも大久保は西郷を説得することを諦めなかった。「足が痛い」と指宿温泉に逃した西郷のもとに足を運び、久光の上洛計画に協力することを約束させている。

ほんの一歩でもいいから、前進する。その政治姿勢こそが、大久保の真骨頂であり、粘り腰ならば誰にも負けなかった。

もちろん、西郷へのいら立ちはあっただろう。だが、一筋縄ではいかない男だからこそ、閉塞的な状況を打破する突破力を持つ。切り替えの早い大久保のことだから、そんなふうに気持ちを立て直したのではないだろうか。

大久保は西郷に九州の情勢を探らせるため、下関に先発させる。そこで、久光が率いる本隊を待って合流するように、と申し合わせた。

ところが、西郷はまたもや大久保が予想すらしない行動に出る。なんと下関で久光を待つことなく、そのまま薩摩藩士の村田新八らとともに、京阪方面へと向かったのである。

「田舎者」となじられても一度は耐えた久光だったが、今回ばかりは許せなかった。命令無視もさることながら、西郷の動きはあまりにも不穏だったからである。

というのも、このとき精忠組のなかの過激派が勝手に京に上り、尊王攘夷派と連携しようとしていた。大久保は久光に「西郷は大阪で過激派を鎮圧しようと働きかけています」と報告するが、実際はどうも西郷自身も過激派に合流しようとしていた節もある。少なくとも、久光にはそうとしか思えなかった。

勝手な行動は許さないと、久光は精忠組の急進派たちを処罰。西郷は鹿児島へ送還されて、その後、徳之島、ついで沖永良部島へと流されることとなった。

「刺し違えて死のう」と切り出した大久保

島流しにされる前、伏見を発った西郷は兵庫に立ち寄り、大久保が泊まる宿にやってきた。大久保は訪ねて来た西郷を人気のない浜辺に連れ出して、こう切り出したといわれている(『大久保利通伝』)。

「今ここに終わった。刺し違えてともに死のう」

今度は西郷が大久保を止める番だった。西郷はこう言った。

「互いに刺し違えれば、誰が勤王の大志を貫徹するというのか。自分はどれだけ責められようが、どんな辱めを受けようが構わない。いかなる罪も受け入れる覚悟だ。お前はどうか耐え忍んで、国家のために力を尽くしてほしい」

西郷の言葉に、大久保も生きる道を選ぶことになる。

周囲からは、理解しがたい関係には違いない。現に、同志だったはずの中山すらも、西郷の勝手な行動に腹を据えかねて「処罰するべし」と久光に進言している。大久保も同じように西郷に激怒してもおかしくはなかった。また西郷も、大久保のずさんな計画につきあうことなく、国元に引っ込むこともできたはずだ。だが、2人はそうはしなかった。

西郷と浜辺を歩いたこの日、大久保は日記にこう記している。

「心中、なかなか耐え難く候」

西郷は島に流されて、大久保も混乱の責任をとり謹慎。この2人が新たな時代を拓くとは、このとき誰も予想しなかったことだろう。

(第7回につづく)

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