学校で教えない「日本神話」現代にも影響力凄い訳架空の物語だが、国のあり方を問題にしている

島田 裕巳 : 宗教学者、作家

2022/06/26 9:00

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アマテラスが祀られている伊勢神宮(写真:denkei/PIXTA)

神話の大きな特徴は、世界や人間のはじまりを含め、さまざまな事柄の起源について語るところにあります。日本の神話は「古事記」「日本書紀」に記されていますが、中学や高校の古文の授業で取り上げられることはほとんどありません。

ただ「神話には日本人らしさが示されている可能性がある。そう考えると、私たちが日本の神話に無知であることは、決して好ましいことではない」と指摘するのが、宗教学者の島田裕巳氏です。島田氏の新著『教養として学んでおきたい古事記・日本書紀』から一部抜粋・再構成し、神話の持つ意味を解説します。

神話、おとぎ話、伝説はどこで区別されるのか

神話とは神々の物語である。古事記でも日本書紀でも、とくに前半の部分は日本の神々の物語になっている。ただ、神々が登場する物語は、古事記・日本書紀に限られない。おとぎ話や伝説のなかにも、人間を超えた、あるいは人間と異なる存在が登場するものがある。

では、神話とおとぎ話や伝説はどこで区別されるのだろうか。次にあげる物語のなかで、古事記や日本書紀に含まれるものはどれだろうか。

・浦島太郎
・因幡(いなば)の白兎(うさぎ)
・海幸彦と山幸彦
・かぐや姫
・牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)

このうち、古事記と日本書紀に出てくるのがウミサチヒコ(海幸彦)とヤマサチヒコ(山幸彦)の物語で、古事記だけに出てくるのが因幡の白兎の物語である。浦島太郎の物語は日本書紀に登場するが、ウミサチヒコとヤマサチヒコの物語を下敷きにしているとも言われる。

古事記・日本書紀とかかわりがないのが、かぐや姫と牽牛・織女の物語で、かぐや姫は「竹取物語」に出てくる。牽牛・織女は中国の伝説だが、神話とされることもある。浦島太郎の物語も、中世から近世にかけて広く読まれた「御伽草子(おとぎぞうし)」にも含まれており、その点ではおとぎ話としても扱われていたことになる。

因幡の白兎やウミサチヒコ・ヤマサチヒコの物語も、それだけ取り出せば、伝説、おとぎ話に見えてくる。その点では、神話と伝説、あるいはおとぎ話の境界線はあいまいだということになる。

浦島太郎もそうだが、因幡の白兎やウミサチヒコ・ヤマサチヒコの物語が古事記や日本書紀に含まれているのだとしても、これらを神話の枠のなかに含めるには、何か物足りないところがあるような気もする。

因幡の白兎の物語には、オオクニヌシノミコト(大国主命)が登場する。そこでオオクニヌシは、かわいそうな兎を慈しむ優しい存在として描かれている。

しかし、オオクニヌシの重要性は、スサノオノミコト(須佐之男命)の子孫としてスクナビコナノカミ(少名毘古那神)と協力し、葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りをしたことにある。

さらに、高天原(たかまがはら)からアマテラスによって遣わされた神々に対して国譲りを行ったことも、古事記においてはそうとうに重要な部分となっている。なお、国譲りの話は、日本書紀では本文では取り上げられておらず、一書(いっしょ)のなかで扱われている。

『広辞苑(第五版)』の「神話」の項目には、次のように記されている。

現実の生活とそれをとりまく世界の事物の起源や存在論的な意味を象徴的に説く説話。神をはじめとする超自然的存在や文化英雄による原初の創造的な出来事・行為によって展開され、社会の価値・規範とそれとの葛藤を主題とする。

神話が問題にするのは「国のあり方」

表現は難しいが、神話とは、世界のはじまりや、世界に現れてきたさまざまな事物がどういった意味をもっているかを語る物語であり、そこには、神々や英雄たちが深くかかわってくる。しかも神話は、社会のあるべき姿を示し、ときに神々や英雄は、そうした社会規範とぶつかり合うこともあるというのだ。

要するに、神話が問題にするのは、国のあり方ということになる。その神話を伝える民族が住む国がどのようにして誕生し、発展してきたのか、神話はそれを語り出すことを目的としている。

国を作る、あるいは国を広げるということでは、必ずやそこに対立が生まれ、それは戦争にも発展する。英雄が活躍する余地が生まれるのも、神話がそうした性格を持っているからである。

そのなかには、因幡の白兎のような物語も加えられてはいるが、それは神話の主たる筋書きを構成するものではない。あくまでサイドストーリーであり、本筋ではない。だからこそ、そうした物語は、伝説やおとぎ話としてもとらえられるのである。

記紀神話では、後半は神武天皇からはじまる代々の天皇のことが語られている。古代の天皇は日本の支配者であり、まさに国の根本的なあり方と深くかかわっている。

しかも、天皇は神々につらなる存在として描かれている。古事記にも日本書紀にも、「天孫降臨」の物語が記されている。

アマテラスなどに命じられて高天原から降臨するニニギは、オオヤマツミノカミ(大山祇神)の娘であるコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)と結婚し、何人かの子どもをもうける。

古事記と日本書紀ではどういった子どもが生まれたかが異なるが、古事記では、第3子ホノオリノミコト(火折尊)がワタツミノカミ(海神)の娘であるトヨタマヒメ(豊玉姫)と結ばれ、ヒコナギサタケウガヤフキアワセズノミコト(彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)を産んだとされる。

さらに、ウガヤフキアワセズはやはりワタツミの娘であるタマヨリヒメ(玉依姫)と結ばれ、その間に産まれたのが初代の天皇、神武天皇ということになる。

もちろん、神話は架空の物語であり、神々だけではなく、神武天皇も実在したとは考えられない。なにしろ、その祖母にあたるトヨタマヒメはヤヒロワニの姿で出産したとされる。ヤヒロワニが何かは議論があるが、サメやワニ、ウミヘビのたぐいと考えられる。

現代の常識からすればありえないことだが…

そもそも代々の天皇をさかのぼると神々に行き着くということが、現代の常識からすればありえないことである。しかも、ニニギの父であるアメノオシホミミノミコト(天忍穂耳尊)は、アマテラスとスサノオが誓約をしたときに生まれたものである。

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その際にスサノオはアマテラスから八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)という珠を受け取って、それを噛み砕く。その際に噴き出した息の霧からアメノオシホミミなどが生まれたというのだ。生まれ方は超自然的である。

そんなことはとうてい事実とは考えられないわけだが、古代の天皇が日本の支配者となり、現行の日本国憲法で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされているのも、究極の根拠は、神話に求めるしかない。

憲法では、天皇が国の象徴であるのは、「主権の存する日本国民の総意に基く」とはされていても、総意がどのようにして形成されたのか、具体的な経緯があるわけではない。その点では、記紀神話は現代の日本社会にまで強い影響力を発揮していることになる。

神話は国の成り立ちと深くかかわっている。そこにこそ神話の特徴があり、その点で、おとぎ話や伝説の類とは異なる。古事記と日本書紀を見ていく際に、そこが決定的に重要なのである。

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