自殺図った西郷隆盛に大久保がかけた胸刺す言葉

豪快に見えて実はとても繊細だった男の素顔

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真山 知幸 : 著述家 著者フォロー

2021/11/21 11:00

前回に引き続き、西郷隆盛と大久保利通の関係に迫ります(写真:ABC/PIXTA)

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。

しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。

大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第5回も、盟友でありライバルでもある西郷との関係について解説する。

<第4回までのあらすじ>
幼いときは胃が弱くやせっぽちだった大久保利通。武術はできずとも、薩摩藩の郷中教育によって後に政治家として活躍する素地を形作った(第1回)。が、21歳のときに「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動によって、父が島流しになり、貧苦にあえぐ(第2回)。

ようやく処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に趣味の囲碁を通じて接近し、取り入ることに成功(第3回)。島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように久光を説得し、実現させた(第4回)。

絶望の中で入水自殺を図った西郷

何かと誤解の多い大久保利通の実像に迫るのが、本連載の目的である。だが一方で、大久保とは対照的に英雄視される西郷隆盛もまた、イメージ先行で語られやすい。

「私心を持たず、人情に厚く、包容力がある豪快な革命児」

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いいイメージをわざわざ覆すことはないのかもしれないが、人間臭い実像がまた別の魅力を引き立たせてくれることがある。書簡を読み解いていくと、実際の西郷は繊細で、また猜疑心が強い一面もあったようだ。

西郷は、大老の井伊直弼による「安政の大獄」で命を狙われた月照を保護。故郷の鹿児島に連れ帰ろうとするも、薩摩藩に受け入れられず、絶望のなかで月照とともに海に身投げを決行する。

1人だけ死にきれずに生き残った西郷に対して、現場に駆けつけた大久保は、こんな言葉をかけた(『大久保利通伝』)。

「月照があの世に逝き、あなた一人が生き残ったのは、決して偶然ではありません。天が、国家のために力を尽くさせようとしているのです。どうか、これからは自死など考えることなく、自重して国家のために尽くしてください」

西郷は、薩摩藩11代藩主で自身を引きたてた島津斉彬が死去したときも、墓前で自殺を図ろうとしている。大久保は3歳年下の後輩の身でありながら、「生き残ったからには、やるべきことをやれ」と、西郷がまたヤケを起こさないように釘を刺しながら、叱咤激励したのだ。

西郷にいろいろな意見を求めた大久保

その一方で、西郷が奄美大島に送られることになると、大久保は西郷に代わって若者の集団「精忠組」のリーダーを務めることへの不安に駆られたようだ。精忠組が暴発しそうになっていることに対して、大久保は西郷にいろいろと意見を求めている。

「幕府に召し捕られた有志に対し、幕府が無法なふるまいをしたときは、どう対処すべきだろうか」

大久保の5項目にもわたる質問に対して西郷は、島への出発直前の慌ただしい最中にもかかわらず、1つずつ懇切丁寧に答えた。脱藩して挙兵しようと「突出」を計画する精忠組への西郷の意見は、次に集約されている。

「傍観はするべきではない。われわれも立つべきである。しかし、事を急いで粗忽にふるまっては、事態は困難を伴うばかりである。慎重でないといけない」

やはり大久保にとって西郷は経験豊かな先輩だった……と改めて感じさせるような、やりとりだ。大久保は西郷のアドバイスに従い、精忠組が「突出」するのを抑えるべく策を練っている。

前回でも書いたように、幼少期をともにしたことから「竹馬の友」のように語られる西郷と大久保だが、実際のところは、兄弟のような屈託のない仲の良さではなかった。距離感を保った先輩後輩の関係であると同時に、互いの実力を認め合ったライバル関係といったほうがよいだろう。

暴走しがちな西郷のブレーキ役となった大久保だが、局面ごとにおいて、西郷の突破力をテコにして大胆な改革を実現させていくのだった。

生き残った西郷は「菊池源吾」と改名させられたうえで、奄美大島に送られた。島流しになったのは薩摩藩の判断で、西郷だけが生き残っていることを幕府に知られるとやっかいだと考えたからである。

大久保から「生き残ったからには、国家に尽くすべし」という激励を受けた西郷。自死の考えはとりあえず捨て、自分の使命を果たすことをいったんは決意する。

しかし、恩人の月照だけを死なせたことが、どうしても胸に去来してやまない。西郷より先に奄美大島へ島流しにされていた薩摩藩士の重野安繹が訪ねてくると、つらい心境を吐露した。

「投身入水という女子のしそうな手段を講じて、自分だけ生き残ってしまった」

島の生活は肌に合っていなかった

何かと気分が沈みがちな西郷だったが、島民たちが薩摩藩に砂糖の生産を強いられた挙句、搾取されていると知ると激怒。役人の島民たちへの暴力に立ち向かうなど、西郷らしい正義感も発揮している。

しかしながら、西郷が島民たちと心をともにしたかといえば、首をかしげざるをえない。島での生活が5カ月ほど経過した安政6(1859)年6月7日の時点で、こんな心境を大久保らへの手紙に綴っている。

「毛唐人たちとの交わりは極めて難儀で、気持ちも悪い。生き残った人生を恨む」

「毛唐人」とは、島の住民のこと。言葉が通じなかったため、西郷はそう表現したらしい。島民とコミュニケーションがとれないうえに、湿潤な気候も西郷の肌に合わなかった。体調不良に苦しめられた西郷は、少しでも状況を変えるため「せめて転居させてほしい」と親交のある代官に願い出ているほどである。

西郷といえば、恰幅のいい体格で知られているが、島に流される前はスマートだったという。寝て食うのがほとんどの島での生活が、西郷を不健康な肥満体へと変貌させたようだ。万延元(1860)年2月28日付の大久保らへの手紙で「豚同様にて」と自虐的に近況を報告している。

そんな西郷にとって、島で結婚した愛加那の存在は大きかったことだろう。島で西郷の世話をしたことが出会いのきっかけで、33歳の西郷が23歳の愛加那を妻に迎えた。2人は仲睦まじく、目の前でイチャイチャするので、周囲が目のやり場に困ったという。やがて西郷にとって最初の子どもである菊次郎が誕生している。

それでも夫婦間は対等な関係ではなかった。結婚して3年が経っても、西郷は愛加那のことを書簡で「召し使い置き候女」と記している。この時代に珍しい認識ではないが、西郷にとってあくまでも愛加那は現地妻にすぎなかった。

狩りや釣りを始めるなど島の生活にも少しずつ慣れた西郷だったが、それでも島生活の始まりから一貫して、帰藩を願い続けたのである。

西郷を復帰させるべく久光を説得した大久保

そんな西郷の苦境を案じた大久保は、船が出るたびに衣類や生活必需品を送り届けた。大久保もまた過酷な謹慎生活を送っていたときに、西郷から同じように援助を受けている。当然のお返しだという気持ちもあっただろう。

それだけではない。大久保は頻繁に手紙で社会情勢を知らせている。西郷は島から帰藩する日を待ち望んだが、大久保も同じように、いや、もしかしたら本人以上に、西郷の藩政への復帰を熱望した。

文久元年(1861年)に小納戸頭取に任命されて久光の側近になると、大久保はすぐさま「西郷の帰藩を許してほしい」と働きかけている。このころには、精忠組も藩の中枢で存在感を持ち、おのずと大久保の発言力も高まった。時勢を見極めるのが得意な大久保のことだ。ここが勝負どころだと読んだに違いない。

今こそ自分が西郷を引き上げるんだ――。晴れて久光と対面を果たす西郷の姿を、大久保は何度も想像したことだろう。

だが、そのイメージが現実となったとき、西郷は久光の上洛計画をこき下ろしたうえで、とんでもない暴言を吐くことになる。

「あなたのようなジゴロ(田舎者)に、斉彬公の真似は無理でごわす 」

そんな未来など想像するはずもなく、大久保はひたすら久光を説得し続けたのであった。

(第6回につづく)

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