仇敵・島津久光を屈服させた西郷隆盛「人望」の力言葉を介さず存在そのもので納得させる凄み

西郷隆盛は明治維新の英傑と評され、今も人々に愛されている(写真:PhotoNetwork/PIXTA)

明治維新の英傑である西郷隆盛は、かつて自身を2度にわたり島流しにした島津久光と交渉し、版籍奉還(藩主が領地と人民を朝廷に返すこと)を認めさせました。島津久光が権力を手放すことに同意させた西郷の力について、『小説 人望とは何か?』より一部抜粋・編集のうえご紹介します。

「幕府」という価値観からの脱却

組織のリーダーに求められる要素の一つに「価値観を示すことができる」というものがあります。別の言葉でいえば、世界観をつくることができる人物です。

世界観をつくるということは、たくさんの考えや立場の違う人の矛盾を乗り越えて、共存できる世界を示すことです。これは簡単なことではありません。特に長らく安定し、固定された世界に身を置いた人たちが新しい観念を持つことは至難の業です。大企業など歴史のある組織がなかなか変革できないのも、世界観の再構築が難しいからです。そしてその難易度の高い世界観の変更を行えるのが、人望のある人です。

大きな組織が世界観を変えるには何らかのきっかけが必要になります。そのひとつは環境変化による危機です。幕末、徳川幕府によって約250年の安定を享受していた日本に大きな環境変化が起こります。それは、ペリー来航に端を発した外圧でした。

これによって、日本の人々の世界観は大きく変わります。しかし、ある日突然新しい世界観に変わったわけではなく、最初は攘夷と開国というふたつの観念が激突しました。そして、それがやがて、幕府という世界からの脱却に収斂されていきます。

しかし、この時点では「幕府」はだめというだけのもので、「幕府」を倒したあと、どんな世界が訪れるのかを示した者はいませんでした。

倒幕という目標を持った長州や薩摩も、「藩」という小さい世界をベースに行動していました。そして倒幕の機運が高まっていく中で、最初に新しい世界観を提示したのが土佐の坂本龍馬でした。

龍馬は早くから土佐藩を脱藩して横断的に活動していたので、高い視座から「日本」を見ることができました。龍馬の世界観は、「藩」を超え、「身分」を超え、誰もが平等に日本という国の方針を決めることができるというものでした(アメリカの議会民主制に影響を受けたものといわれています)。

しかし、龍馬は志半ばで兇刃にたおれます。その龍馬の後を継いだのは、西郷隆盛であり、大久保利通であり、木戸孝允でした。彼らは、政権交代という現実のもとに新しい国づくり、新しい世界観を構築していきます。

廃藩置県で大名の「最大の利権」を解体

明治政府が目指したのは、欧米列強に侵食されない国づくりです。環境の危機が、彼らの世界観をつくっていきます。龍馬の理想と彼らの世界が同じだったかどうかは微妙でしたが、向かう道は同じでした。新しい日本をつくるためには、それまでの「藩」の集合体による連邦国家の体制や、身分に囚われた人材登用では限界がありました。

そして、その最大の改革が廃藩置県でした。大名と藩という最大の利権を解体したのです。そこには幕府を倒した功労者である薩摩藩や長州藩も含まれました。この難題を誰が担当するのか。明治政府の要職につく者は、ほとんどがかつては身分の低い武士です。時代が時代であれば殿様など一生見ることができなかったかもしれません。かつての主君に、握っている権力を手放すように言わなければならないのです。

これを担当したのが、西郷隆盛でした。西郷は、明治維新で最大の功績のある薩摩藩から、廃藩置県を行うための版籍奉還(藩主が領地と人民を朝廷に返すこと)を行わせることにしました。その交渉相手は、西郷にとっては主である島津久光です。

久光は、西郷にとって関係性の良い主ではありませんでした。むしろ最悪と言ってもいいでしょう。久光の兄である島津斉彬の秘蔵っ子であった西郷は、ことあるごとに久光と対立しました。久光は西郷を憎み、2度にわたり島流しにします。2度目は明らかに殺意のある過酷な島流しでした。

しかし、激しく変わる情勢に対応するために大久保利通らが動き、西郷は政治の表舞台に返り咲きます。久光にすれば、やむなく登用しただけであり、本音は憎んでも憎みきれない相手でありました。西郷にとっても、久光に受けた数々の仕打ちは決して許せるものではなかったと思われます。

久光は、できることならば反抗したかったでしょう。しかし、結局、久光は西郷の前に屈服します。それは薩摩の武士たちのほとんどが西郷に服していたからです。幕末から戊辰戦争を通して、西郷は「藩」という小さな視座から、日本全体を考えられる大きな視座を持つことができました。それゆえに彼は「江戸城無血開城」をはじめ敵である徳川幕府に対しても寛容であり、一刻も早く新しい日本をつくりあげようとしたのです。

言葉による説得をする必要がなかったカリスマ

そして、日本中の武士たちにとって、西郷そのものが一つの世界観でした。語らずとも納得させる。人望の極みは、言葉を介さず存在そのもので納得させることです。

新しい日本の世界観の入り口をつくった坂本龍馬は、言葉の人でした。巧みなコミュニケーション能力で相手を説得していきました。龍馬自身は大きな組織を持っていたわけではありませんでしたが、西郷や木戸のような大藩のリーダーを説得することによって自身の世界観を達成しようとしました。

龍馬がたおれ、言葉のあとに必要だったのは具体的な仕組みです。これをつくったのは、西郷の盟友である大久保や木戸でした。その仕組みを実践させることができたのは西郷というカリスマの存在です。もし、西郷がいなければ、大久保や木戸は、考えの違う勢力を一つひとつ説得せねばならず日本の近代化は大幅に遅れたでしょう。西郷隆盛は、上は大名から下は下級武士まで、誰もが彼の後ろをついていこうという思いを抱いた人物だったからです。

西郷の価値観はいかにしてつくられたのか?

では、西郷に対する武士たちの「人望」は、いかにして醸成されたのでしょうか。

西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士に生まれながらも主君、島津斉彬に抜擢され出世していきました。西郷の価値観や世界観は、斉彬をベースに形成されていきます。斉彬は薩摩という組織をベースにしながら国家の運営を助けていくというスタンスでした。西郷の「薩摩ファースト」はこのときに生まれました。

斉彬は、国(幕府)を動かすには薩摩という藩の力を最大限に高め、その実力をもって意見をしないと何も変わらないと考えました。当時の幕府は親藩出身の老中たちによって運営されており、外様大名である斉彬がこの国家運営に加わるためには幕府を恐れさせる力が必要だったのです。

このため斉彬は、藩の改革を行います。外国の最新の軍事を学び、その装備を手に入れ、薩摩藩の軍を日本最強の軍隊に変貌させようとします。また、人事においては役職や身分にかかわらず大胆な抜擢を行います。さらに密かに海外との貿易を盛んにし、経済の立て直しを図ります。いわゆるヒト・モノ・カネの強化を行ったのです。

西郷は斉彬のヒト強化のシンボルでした。西郷はこの斉彬の「薩摩藩は力があるからこそ国を動かせる」という薩摩ファーストの信奉者でした。西郷の価値観を形成したのは斉彬の影響と、もうひとつは下級武士の出身という彼の生い立ちでした。

薩摩では下級武士に対する差別が酷く、下級武士の間にはそのことに対する不満が常に存在しました。斉彬の人材登用による西郷の出世は、下級武士たちの希望であり、彼らが夢見る世界観が西郷に植え付けられていきます。

幕末においての西郷は、斉彬の跡を継いだ島津久光の迫害に遭いながらも(その迫害がまた、下級武士の間での西郷の求心力を高めるという皮肉な結果につながります)薩摩にとってなくてはならない存在になります。

ときには幕府勢力である会津藩と組んで、反幕府勢力である長州を追い落としながら、時勢が変化するとその長州と同盟を結んで幕府や会津藩を倒すというある種の矛盾は、西郷にとっては「薩摩ファースト」という考えの中では至極当たり前のことであり、彼の配下の薩摩藩士たちは一丸となって西郷のリーダーシップに従っていくわけです。

西郷の「人望」の絶頂、そして最期

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明治維新後は、西郷の価値観は「薩摩ファースト」から「下級武士の地位向上」に変化していきます。明治維新は、それまでの武士社会の秩序の打破を目指したものであり、薩摩藩の下級武士たちは続々と新政府の要職につき、栄華を極めていきます。西郷の目指した価値観や世界観は達成され、西郷の「人望」もまた絶頂に達したのでした。

しかし、ここで大きな変化が生まれます。西郷が為した社会は、今度は「武士」という価値観から離れようとしていくのです。この明治政府の新たな指針に対して、武士たちは当然不満を募らせます。

西郷は、下級武士たちの不満を解消すべく、征韓論を打ち出しますが、これも反対に遭い、最後は彼の人望の源である薩摩の下級武士たちに担ぎ上げられるような恰好で西南戦争を起こし、たおれたのでした。

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