「日本に帰る」はずの列車は反対方向へ。着いたのはモスクワ近郊の収容所。ソ連の看守はよく言っていた。「日本人はよく働く。ドイツ人は働かない」と【証言 語り継ぐ戦争】

入隊前日に撮った写真には「生命奉還」と書かれた国旗を持つ井上正己さんが写る=薩摩川内市高城町

 入隊前日に撮った写真には「生命奉還」と書かれた国旗を持つ井上正己さんが写る=薩摩川内市高城町

ソ連の収容所で防寒のため身に付けていた外とうと帽子

 ソ連の収容所で防寒のため身に付けていた外とうと帽子

ソ連の収容所で使っていた飯ごう。「井上少尉」と名前が書かれている

 ソ連の収容所で使っていた飯ごう。「井上少尉」と名前が書かれている

■井上正己さん(100)=鹿児島県薩摩川内市高城町
 1923年9月、台湾の宜蘭で生まれた。弟と妹2人の4人きょうだいの長男。小学生の時に鹿児島市、その1年後に川内に引っ越した。川内商業学校(現川内商工高校)時代には、そろばん大会で優勝したこともある。
 17歳だった40年12月に卒業して翌年1月に満州の満州麻袋に就職し、主計課に配属された。初めて首都新京(現長春)の駅に着くと、迎えが見当たらず友人と一晩駅で寝た。寒さで耳や指がちぎれそうだった。
 19歳で徴兵検査を受けて「第一乙種合格」した。会社の社長が国旗に書いてくれたのは「生命奉還」という言葉。天皇に命をささげることだと思った。入隊前日に国旗を持って寮で写真を撮り、「一つでも階級が上がるように努力しよう」と決意した。その時の写真は今も大切に持っている。
 新京駅に入隊者が集まり、列車で鞍山に向かった。国旗を腰に巻いて入隊し、「国のため、天皇のために働こう」と思った。軍服に着替え、着ていた服や国旗は川内に送った。初めの3日間は客扱いだったが、1週間たつと「貴様たちは日本のために来たんだろう」と厳しく鍛えられた。
 鞍山で配属されたのは、敵の飛行機を撃ち落とす高射砲隊。一つの隊に13人いた。視力や聴力が良くないとできず、操作が1番難しい6番砲手を任された。飛行機に付けた吹き流しを目標に撃つ訓練があったが、「不経済だから」と実弾は一度しか使わなかった。敵は現れず、実際に撃ったことはない。「日本は優秀」と教わり、戦況は考えていなかった。
 数カ月後に「少しでも上の階級になりたい」と幹部候補生の試験を受けた。合格すると、予備士官学校で半年間訓練した。早朝に突然起こされたり、厳しい寒さの中、外に立たされたりもした。
 同じ隊の失敗は連帯責任で、素手や棒でたたかれる、蹴られるは日常茶飯事。本当にきつかった。ただ、見習士官に階級が上がると、そんなことはなくなった。
 卒業後、一度転勤して新京に戻った。川の南岸に防空壕(ごう)を掘り、ソ連軍の侵入を監視している時に終戦を迎えた。2、3日遅ければ戦死していただろう。
 その年の10月、「日本に帰る」と言われて乗った貨物列車は、日本とは反対方向に進んだ。着いたのは、モスクワ近郊のマルシャンスク収容所。ソ連軍の捕虜になった。

 連れて行かれたソ連の収容所には捕虜が1万人以上いて、ドイツ人が一番多かったと思う。ポーランドやルーマニア、ハンガリー人もいた。
 春はジャガイモの植え付け、夏は草刈り、冬は森林伐採を3年間繰り返した。作業は午前8時ごろ始まり、気温がマイナス十数度になると終わる。収容所から歩いて約1時間の森林で2人でのこぎりを引いて木を切り、夏はいかだを作って木材を川の下流に運んだ。
 収容所では看守が銃を持って監視していた。彼らがいつも言っていた「日本人はよく働く。ドイツ人は働かない」というロシア語は今も忘れられない。一方、ドイツ人捕虜は「われわれは(ソ連の指導者の)スターリンのためには働かない」と話していた。
 ソ連の上官は「もうすぐ日本に帰れるから働け」と言うが、なかなか帰れなかった。娯楽はなかったが、ハンガリーやルーマニア人はボールで遊んでいた。1日3食あったが量は少なく、空腹を満たすため収穫したジャガイモをポケットに隠して後から食べた。当時の分厚い防寒帽や外とうは今も保管している。これがないと、厳しい寒さの中で生きられなかった。
 一度だけ、日本の両親にはがきを出すことを許されたが、詳しいことは言えずに「元気でおります」とだけ書いた。帰国できると聞いた時は「死なずにすんで良かった」とほっとした。
 24か25歳の時、ナホトカから船で日本に向かった。船上では上官に裸で整列するように命じられ、「ソ連に忠誠を誓ったやつは、今から日本海にたたき落とす」と言われた。故郷に着くまでは気が抜けなかった。
 舞鶴港(京都)に上陸した時は、青空が本当にきれいだと感動した。ソ連は1年の多くが雪で白かったからだ。川内までは国が支給した汽車の切符と現金500円、おにぎりを持って帰り、父が上川内の駅で迎えてくれた。帰宅中、海軍兵学校に入学していた弟の昭大が、横須賀の病院で死んでいたことを聞いた。16歳だった。
 1948年に川内の菓子・パン屋で働き始め、50年に妻ノブと「井上パン」を開業した。長男の正信が継ぎ、国道3号沿いの直営店「ピノッキオ」では孫の信吾も働いている。14人のひ孫にも恵まれた。
 現在のロシアとウクライナの戦争は、非常に残念なこと。戦争は無駄だ。人間同士の戦いは、二度とするものじゃない。

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