関ヶ原の戦いで家康軍に向かって敵中突破した、島津義弘が辿った生涯|捨て身の戦法「島津の退き口」の真相【日本史人物伝】

はじめに-島津義弘とはどんな人物だったのか?

島津義弘といえば、関ヶ原の合戦時、敵陣への正面突破という捨て身の戦法で難を逃れたことを思い浮かべる方が、多いのではないでしょうか? 島津義弘とは、実際どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。


島津義弘像(尚古集成館蔵)

島津義弘の生きた時代

島津義弘が生まれたのは、天文4年(1535)。その前年には織田信長が生まれ、同じ年に生まれた武将には、丹羽長秀(にわ・ながひで)がいます。この時代は、全国的に武士たちが勢力争いを繰り広げた戦国時代でした。

島津義弘の足跡と主な出来事

島津義弘は、天文4年(1535)に生まれ、元和5年(1619)に亡くなります。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

薩摩戦国武将・島津貴久の次男として誕生

島津義弘は、天文4年(1535)7月22日に戦国大名・島津貴久の次男として伊作城(=現在の鹿児島県日置市)に誕生します。母は入来院弾正忠重聡の女で、兄に義久がいます。幼名は又四郎、初名忠平、兵庫頭を称しました。

天文23年(1554)、蒲生氏との合戦・大隅岩剣(おおすみいわつるぎ)城攻め(=現在の鹿児島県姶良市)で初陣を飾ります。軍功をあげた島津義弘は、岩剣城の城番を務めることに。続いて日向飫肥(ひゅうがおび)城(=現在の宮崎県日南市)、飯野(いいの)城と前線の城番をしました。

九州全土を征覇へ…

その後、三山(さんのやま)城攻め、馬越(まごし)城攻め、本地原(ほんちばる)合戦、木崎原(きざきばる)合戦など多くの戦いで活躍。九州征覇の合戦でも高城で大友義鎮軍を壊滅させ(耳川の戦い)、日向一国を手に入れました。その後も、水俣城、岡城、堀切城攻めで連戦連勝を飾りました。

この時、島津氏の勢力は、肥後(=現在の熊本県)、筑後(=現在の福岡県)、肥前(=現在の佐賀県・長崎県)にまで及びました。これに伴い、義弘は、天正13年(1585)以降、肥後守護代を務めるようになったのです。

天正14年(1586)8月には、足利義昭の偏諱をうけ義珍(よしまさ)に、翌年8月には義弘へと改名しています。


JR伊集院駅前にある、島津義弘公像

豊臣秀吉に敗北、大隈国を安堵される

兄の義久とともに、ほぼ九州を平定した義弘でしたが、天正15年(1587)5月、大友宗麟の救援を名目として、豊臣秀吉が20万の軍を九州に派遣。義弘らは、豊臣秀長軍に対抗しましたが、兵力・武具ともに劣り大敗。島津家は、秀吉に降伏をしました。


薩摩川内市にある、豊臣秀吉(左)と島津義久(右)像

豊臣秀吉の九州征伐後は、兄の義久に代わり義弘が島津家の当主となります(※家督を継いでいないという説もあり)。薩摩、大隅領国の支配を安堵されました。

翌天正16年(1588)6月、上洛した際に侍従に任ぜられ、従四位下に叙せられます。7月には、羽柴姓が与えられました。

文禄元年(1592)4月には朝鮮へ出兵し、7月に帰国(文禄の役)。さらに慶長2年(1597)3月には再び朝鮮へと渡海しています(慶長の役)。慶長3年(1598)泗川(しせん)の戦いでは、大きな武功をあげました。

朝鮮出兵時、義弘には次のような逸話が残されています。朝鮮の寒さが厳しかったため、多くの凍死者を出した日本軍。しかし、島津隊からは一人の凍死者も出なかったとか。その理由は、身分を問わず、全員で暖をとり、義弘自らが寝食をともにして部下を気遣っていたからだそうです。

こうした逸話からも、義弘が部下に慕われていたことがわかります。

関ヶ原の戦いでは、最後まで豊臣方として戦う

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、西軍に属し、最後まで豊臣方として戦います。しかし、西軍の敗戦が決定的となった時、義弘は徳川家康の本陣に向かって捨て身の敵中突破を敢行(島津の退き口)。
義弘の本隊が撤退するときに、小部隊がその場に留まり、追ってくる東軍と戦い、足止めするという戦法。そうして敵軍と戦っていた小部隊が全滅すると、また新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをし、義弘の本隊を、関ヶ原から逃げ切らせた。

その後、海路を経て薩摩国に戻り、義弘は向島(桜島)に蟄居しました。1,500名ほどの兵士のうち、帰還できたのはわずか数十人ほどであったそうです。

このエピソードは、当時の人々の語り草にもなりました。


関ヶ原古戦場 島津義弘陣跡

合戦後、改易を免れる

関ヶ原の戦い後、島津家の当主となっていた忠恒(義弘の三男)が上洛し、家康に謝罪をします。このことにより、島津家は、薩摩国・大隅国60万5,000石を安堵されました。

その後、義弘は慶長11年(1606)帖佐より平松(=現在の姶良町)に移り、翌年加治木に隠棲しました。

そして、元和5年(1619)7月21日、85歳でその生涯を閉じます。義弘が亡くなった時、家臣13人がその後を追って殉死したそうです。この時、殉死は禁じられていました。しかし、それを押してでもついていきたい魅力が義弘にはあったことがうかがえます。

まとめ

島津義弘は、生涯で52回の軍功をあげた勇将です。九州統一、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いにおいても、常に戦地最前線で指揮をとっていたと言います。

武の印象が強い義弘ですが、一方で千利休から直接茶道の指南を受けたり、朝鮮から陶工を招致したりと、文化面でも優れた武将でもありました。この陶工招致は、今も薩摩焼として形を残しています。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
鹿児島県姶良市ホームページ
『国史大辞典』(吉川弘文社)
『世界大百科事典』(平凡社)

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