50年前に消えた国境の海を望む 与論島(鹿児島県与論町)

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2022/3/25 11:00

与論城跡から望む沖縄本島。昭和47年まで目前の海上が国境だった

与論城跡から望む沖縄本島。昭和47年まで目前の海上が国境だった

鹿児島新港(鹿児島市)から船で奄美群島の与論島へ向かった。鹿児島県の最南端に位置する隆起サンゴ礁の島で、日本屈指の透明度を誇るエメラルドグリーンの海が広がる。島の周りを環礁が囲っているため、内海は穏やかで、サンゴ礁やウミガメなどが見られる。大金久(おおがねく)海岸では真っ白な砂浜が続き、干潮時になると沖合1・5キロに「幻のビーチ」と呼ばれる百合ケ浜が出現する。島内はサトウキビ畑が平地の半分ほどを占め、亜熱帯植物が生い茂り、ハイビスカスの花が咲き誇る。

南部の小高い段丘に、15世紀に琉球の北山王の三男が築き、未完成といわれる与論城跡がある。ここからは、海の向こう23キロ先に沖縄本島北部の島影を望める。昭和47(1972)年に沖縄が本土復帰を果たすまで、その海上は〝国境〟だった。

戦後、米軍は北緯30度以南の南西諸島を統治し、与論島も含まれた。その後、北緯27度以北の島々だけが返還され、28年12月25日に与論島などの奄美群島は本土復帰した。

干潮時に現れる百合ケ浜はボートで上陸できる

干潮時に現れる百合ケ浜はボートで上陸できる

昔から与論島と沖縄本島最北部の国頭村(くにがみそん)は深い交流があり、与論の人は沖縄のことを「ヤンバル」と呼ぶ。物々交換をしていた歴史も長く、森に囲まれ、林業の盛んな国頭村からは木材を、与論島からはヤギやブタ、イモなどの畜産物や農作物を提供していた。

与論民俗村で、村長の菊秀史さんに話を聞くと、「以前は『郵便フギャー』といって、島から国頭村へ舟をこぎ、郵便物を届ける役もいた」と、交友関係にまつわる話を教えてくれた。

また、戦前に島の漁師は漁業の先進地であった沖縄の糸満で漁を習い、戦後は奄美群島の沖永良部(おきのえらぶ)島や徳之島、大隅諸島の屋久島などで、「アギャー(追い込み漁)」をしたり、漁を教えたりしていたそうだ。

沖縄は今年5月に本土復帰から50年を迎える。これに先立つ2月28日、与論町と国頭村が記念事業を企画して、かつての物々交換が再現された。4月28日は、沖縄の本土復帰まで国境だった北緯27度線上で〝海上集会〟の再現なども行われる予定だ。

海上集会は、昭和38年から、サンフランシスコ講和条約が発効した4月28日に、本土側と沖縄側の関係者が漁船などに乗り込み、北緯27度線上で展開していた沖縄の早期復帰を訴える運動のことだ。

激動の時代、与論島は〝隣人〟と交流を持ちながら、最前線で戦争や戦後の爪痕を目の当たりにしてきた。そして、今日も美しくきらめく海は、悲喜こもごもの歴史をのみ込んできたのだ。

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