実は目が見えていた!?奈良時代、艱難辛苦を経て来日した高僧「鑑真」の業績と作られた伝説

超有名僧侶「鑑真」

日本ではさまざまな「像」が作られていますが、教科書では特にお坊さん(僧侶)の像が紹介されることが多いですね。

特に多く登場するのが古代から中世にかけての時代で、当時はこうしたお坊さんたちがかなりの社会的影響力を持っていたことが分かります。

中でも、鑑真(がんじん)のことはなぜか妙に強く印象に残っている、という人は多いのではないでしょうか。

鹿児島県南さつま市・鑑真記念館の鑑真像

小学校の教科書に登場する最初のお坊さんと言えば、奈良時代に活躍した行基(ぎょうき)・鑑真の二人です。

この二人が登場しない小学校の教科書はない、と言っても過言ではないでしょう。

今回は、鑑真に関する衝撃的な話をご紹介します。

苦難を経て来日

もともと鑑真は日本の僧ではなく、中国(唐)から日本に渡来した人物です。

仏教が日本に伝来したのは飛鳥時代のことでした。しかしそれ以来、仏教の教えは民間信仰と交ざり合うことで、中国で教えられている本来の仏教とは異なるものに変質していました。

そこで鑑真は、正式な仏教の教えを日本の僧たちに伝えて、仏教を正しく理解する人材を育成しようとしたのです。

こういった経緯は知らなくても、彼が日本に来るまでに五回も渡海に失敗したというエピソードは、多くの人にとって強烈に印象に残っているのではないでしょうか。

実際、鑑真は日本へ来るにあたりかなり苦労したようです。ある時は鑑真を渡海させたくない弟子たちの妨害にあったり、船出したはいいものの難破したり、はるか海南島に流されたり、その途上で多くの弟子を失ったり、もう散々でした。

「五回も渡海に失敗した」と一言でいえば簡単ですが、当時の渡海はまさに命がけで、それでもめげずに鑑真は日本に来てくれたのです。

鑑真第六回渡海図(Wikipediaより)

まさに艱難辛苦の末の来日でした。彼は753(天平勝宝5)年に薩摩の坊津に入り、そして翌年に平城京に入ります。

当時の聖武上皇は、授戒の権限をすべて鑑真に委ね、自らも鑑真から戒律を授けられました。そして後に鑑真のために唐招提寺が建立されます。

このよく知られた鑑真の苦難のエピソードは、鑑真の死去(763[天平宝字7]年)から一年後に淡海三船によって記された鑑真の伝記とでもいうべき『唐大和上東征伝』に記されています。

と、少し鑑真の業績の紹介が長くなりましたが、驚くべきは彼の「ある伝説」が実は間違いだったという点です。

実は目が見えていた!?奈良時代、艱難辛苦を経て来日した高僧「鑑真」の業績と作られた伝説

来日時は失明していなかった

2009(平成21)年、奈良国立博物館の西山厚学芸部長が衝撃的な発表をしました。なんと、日本に渡来した時に鑑真は目が見えていたというのです。

おそらく覚えている方も多いでしょうが、鑑真と言えば「来日する過程で何回も失敗し、その中で視力を失った」という有名な伝説があります。それが真っ赤な嘘だったというのです。

教科書にも必ずと言っていいほど掲載されている鑑真の像でも、彼は目を閉じています。こうしたこともあって、彼の「盲目伝説」は今まで強い信憑性を持って伝えられてきました。

唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和尚像」(Wikipediaより)

とはいえ、鎌倉時代に作られた鑑真の伝記絵である『東征伝絵巻』にはしっかり目を見開いた鑑真の絵が描かれていたこともあり、渡来時に目が見えなかったという話にはもともと疑いがかけられていました。

そして、鑑真が東大寺の僧に経典の借用を申し出た自筆の手紙が正倉院に残されていたこともあり、彼が来日時に盲目だったという伝説は否定されるに至ったのです。

では、彼の盲目伝説の出どころはどこなのでしょうか?

これは前節でご紹介した『唐大和上東征伝』の文学的修辞の可能性があると考えられています。鑑真の死後、その業績が忘れ去られようとしていたことに憤りを感じた僧によって、その業績が誇張された可能性があるのです。

鑑真は来日時には目が見えていて、渡来後10年くらいで加齢のために目が見えなくなったのではないか、と現在では推測されています。

鑑真が開基し晩年まで過ごした唐招提寺の礼堂

鑑真が五回もの失敗を乗り越えて六度目にようやく来日できた、という記述は今でも教科書に残っていますし、おそらくそれは本当なのでしょう。

しかし、上述のように鑑真は来日時に視力を失っていなかった可能性が高いです。よってあいまいさの回避と史実に反する可能性を考慮し、「苦労のあまり目が見えなくなった」というくだりは今では削除されています。

参考資料:浮世博史『古代・中世・近世・近代これまでの常識が覆る!日本史の新事実70』2022年、世界文化社

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