戦争の無謀さを見通し、太平洋戦争「開戦初日」に「自爆」して死んだパイロットの最期の様子

私が今年(2023年)7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。今回はまもなくやってくる12月8日の「真珠湾攻撃82年」にちなんだ話題を加筆してお届けする。

感状どころではない

昭和15(1940)年。支那事変(日中戦争)は4年めに入り、泥沼化の様相を呈していた。日本軍に南京を追われた蒋介石率いる中国国民政府は、四川省の重慶に首都を移し、なおも根強い抵抗を続けていた。この年の9月13日、四川省の重慶上空で、進藤三郎大尉が指揮する第十二航空隊の零式艦上戦闘機(零戦)13機は中華民国空軍のソ連製戦闘機30数機と空戦、1機も失うことなく27機を撃墜(日本側記録)するという一方的勝利をおさめた。零戦は7月に海軍に制式採用されたばかりで、新鋭機にふさわしい、華々しいデビュー戦だった。

飯田房太大尉(戦死後中佐)。昭和16年12月8日、真珠湾攻撃で自爆、戦死

重慶で壊滅的損害を被った中国空軍は成都に後退し、そこで再建を図ったが、10月4日、こんどは横山保大尉が率いる零戦8機が成都の中国空軍飛行場を急襲、6機を撃墜、19機を地上で炎上させた。翌10月5日には、飯田房太大尉が指揮する零戦7機が成都の中国空軍に追い打ちをかけ、地上銃撃で10機を炎上させている。飯田大尉はさらに10月26日には8機を率いて10機を撃墜する戦果を挙げた。

中華民国空軍の主力を事実上壊滅させた第十二航空隊零戦隊に、同年10月31日、支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎中将より感状が授与された。

祝勝ムードの十二空で、ひとり浮かぬ顔の士官がいた。10月5日、26日の成都空襲で零戦隊を率いた飯田大尉である。飯田はすでに空母「蒼龍」分隊長への転勤の内示が出ていて、まもなく十二空を離れることが決まっていた。祝宴に同席していた角田和男一空曹(昭和16年6月1日、階級呼称変更で一飛曹となる)は、

飛行機を受領に来た鈴鹿基地最寄り駅の白子駅前で。中央が飯田房太大尉(撮影/日高盛康)

「奥地攻撃でわれわれに感状が授与され、みんな喜んでいる中で、飯田大尉が、『こんなことでは困るんだ』と言っていました」

と回想する。飯田大尉は言葉を続けた。

昭和15年10月26日、成都空襲より漢口基地に帰還した飯田大尉搭乗の零戦(昭和15年11月6日公開「日本ニュース第22号」より)

「奥地空襲で全弾命中、なんて言っているが、重慶に六番(60キロ爆弾)1発を落とすのに、諸経費を計算すると約1000円かかる。敵は飛行場の穴を埋めるのに、苦力(クーリー)の労賃は50銭ですむ。実に2000対1の消耗戦なんだ。こんな馬鹿な戦争を続けていたら、いまに大変なことになる。歩兵が重慶、成都を占領できる見込みがないのなら、早くなんとかしなければならない。感状などで喜んでいる場合ではないのだ」

激しい空中戦

海軍兵学校のクラスメート・志賀淑雄が私に語ったところによると、飯田は「お嬢さん」というニックネームで呼ばれ、温厚、寡黙で、気性の荒い者が多い戦闘機乗りにはめずらしく、気品を感じるほどの「貴公子」だったという。だがいったん空に上がれば、その負けず嫌いで闘志旺盛なことも比類がなかった。

昭和15年10月26日、成都空襲より漢口基地に帰還、零戦から降りる飯田大尉(昭和15年11月6日公開「日本ニュース第22号」より)

空母「蒼龍」戦闘機分隊長になった飯田は、昭和16(1941)年12月8日のハワイ・真珠湾攻撃に、第二次発進部隊の「蒼龍」零戦隊を率いて参加した。飯田の部下だった藤田怡與藏中尉は、私に次のように語っている。

「真珠湾に向け航海中、われわれ搭乗員は暇なので、よくミーティングと称して飯田大尉の私室に集まっては、いろんな話をしていました。

昭和15年10月26日、成都空襲より漢口基地に帰還した飯田大尉の胴上げ(昭和15年11月6日公開「日本ニュース第22号」より)

あるとき、分隊長が『もし敵地上空で燃料タンクに被弾して、帰る燃料がなくなったら貴様たちはどうする』と問われた。あらかじめ、被弾して帰投不能と判断したら、カウアイ島西方のニイハウ島に不時着せよ、そうすれば味方潜水艦が収容に来るから、と言われていましたが、そんなのはあてにならない。みんなああでもない、こうでもないと話をしていると、分隊長は『俺なら、地上に目標を見つけて自爆する』と。それを聞いてみんなも、そうか、じゃあ俺たちもそうなったら自爆しよう、ということになりました。ごく自然な成り行きで、まったく悲壮な感じはなかったですよ」

昭和15年10月26日、成都空襲より漢口基地に帰還、報告のため整列する搭乗員たち。左端が飯田大尉(昭和15年11月6日公開「日本ニュース第22号」より)

12月8日、「蒼龍」戦闘機隊は、菅波政治大尉率いる9機が第一次発進部隊、飯田大尉の率いる9機は第二次発進部隊として出撃することになった。飯田分隊の藤田中尉は第二次発進部隊である。藤田の回想――。

「この日、オアフ島上空は雲が多く、断雲の切れ目からかろうじて海岸線が見えた。いよいよ戦場だ、そう思ったとたん、体が震えるほどの緊張を覚えました。我々第二次発進部隊が真珠湾の上空に着いたときには、すでに第一次の連中が奇襲をかけたあとですから、敵は完全に反撃の態勢を整えていました。後ろを振り返ると、わが中隊が通った航跡のように、高角砲の弾幕の黒煙が連なってるんですから。敵がもうちょっと前を狙っていたら私たちは木っ端微塵になったところです。

昭和15年10月、漢口基地の第十二航空隊の隊員たち。二列め右から山下小四郎空曹長、飯田房太大尉、横山保大尉、箕輪三九馬少佐(飛行隊長)、長谷川喜一大佐(司令)、時永縫之介少佐(飛行長)、進藤三郎大尉、白根斐夫中尉、東山市郎空曹長。最後列右から2人め角田和男一空曹

はじめ空中には敵戦闘機の姿が見えなかったので、作戦で決められた通りにカネオヘ飛行場の銃撃に入りました。目標は地上の飛行機です。飯田大尉機を先頭に、単縦陣で9機が一直線になって突入しました。地上砲火は激しくて、アイスキャンデーのように見える曳痕弾が自分に向かって飛んでくる。当たるかな、と思うと、直前でピッという音を残して上下左右に飛び去ってゆく。あまり気持ちのいいものではありませんね。3度ぐらい銃撃したところで、ガン、という衝撃を感じて、見ると右の翼端に銃弾による穴が開いていました。

そこで爆煙で地面が見えなくなったので、ホイラー飛行場に目標を変更して二撃。ここでも対空砲火は激しかった。飛んでくる弾丸の間を縫うように突っ込んでいったんですからね。

角田和男一空曹(のち中尉)「2000

飯田大尉の自爆

ホイラー飛行場の銃撃を終え、飯田大尉の命令(バンク―機体を左右に傾ける―による合図)により集合してみると、飯田機と二番機の厚見峻一飛曹機が、燃料タンクに被弾したらしく、サーッとガソリンの尾を曳いていました。これはやられたな、と思って飯田機に近づくと、飯田大尉は手先信号で、被弾して帰投する燃料がなくなったから自爆する、と合図して、そのままカネオヘ飛行場に突っ込んでいったんです。私からその表情までは見えませんでしたが、迷った様子は全然ありませんでした。ミーティングで自ら言った通りに行動されたわけです。煙のなかへ消えていく飯田機を見ながら、涙が出そうになりました――。

富士山をバックに、飯田大尉が撮影した零戦。これから空母「蒼龍」に配備される新品の機体のため、機番号がまだ入っていない。

当時、戦意高揚のために、飯田大尉は格納庫に自爆したのを私が確認したかのように報道され、戦後も映画でそのように描かれたりしましたが、煙に遮られてそこまでは見えませんでした」

じっさいに飯田大尉機が墜ちたのは、カネオヘ海兵隊基地の敷地内ではあるが、格納庫や滑走路から1キロは離れた、隊門にほど近い道路脇である。米側の証言記録によると、飛行場に突入してきた飯田機は、対空砲火を受け低空で火を発したが、最後の瞬間までエンジンは全開で、機銃を撃ち続けていたという。飯田大尉(戦死後中佐)の遺体は機体から引き出され、米軍によって基地内に埋葬された。墜落地点には、真珠湾攻撃30周年にあたる昭和46(1971)年、米軍が小さな記念碑を建てた。

空母「蒼龍」

十二空で飯田の部下だった角田和男は、開戦時は筑波海軍航空隊の教員(海軍では教える立場の准士官以上を教官、下士官を教員と呼んだ)をつとめていた。角田は、敬愛していた飯田大尉の戦死の報に、その最期の様子を知りたいと、真珠湾から帰投して筑波空に転勤してきた艦上爆撃機の搭乗員に事情を聞いた。その搭乗員ははじめ、なかなか話そうとしなかったが、角田がなおも食い下がると、「直接聞いたわけではありませんが」と前置きしながらも次のように語ったという。

藤田恰與藏中尉(のち少佐)。「蒼龍」で飯田大尉の部下となり、真珠湾では飯田機が地上に突入するのを見送った(右写真撮影/神立尚紀)

「飯田大尉は攻撃の前日、列機を集めて、『この戦はどのように計算しても万に一つの勝算もない。私は生きて祖国の滅亡を見るのは忍びないから、明日の栄えある開戦の日に自爆するが、みなはなるべく長く生き延びて、国の行方を見守ってもらいたい』と訓示をしたそうです。しかしそのことは、飯田大尉機が自爆したその日のうちに艦内総員に緘口令が敷かれたんです」

昭和16年12月8日、日本海軍機動部隊から発進した艦上機の空襲を受けるハワイ・真珠湾

これが事実とすれば驚くべきことだが、私がインタビューした真珠湾攻撃当時の空母「蒼龍」乗組の零戦搭乗員、藤田怡與藏中尉(前出)と原田要一飛曹はその証言(緘口令)について「記憶にない」と私に語っている。角田が聞いた話の通りなら、飯田は「はじめから自爆する覚悟」だったことになるし、藤田の証言通りなら、「被弾したから」ミーティングで自らの言葉通りに自爆したことになる。だがいずれにせよ、飯田は支那事変ですでに戦争の無謀さに気づき、はっきりと悲観的な見通しをもっていた。開戦初日の真珠湾攻撃で、敵飛行場をめがけてまっしぐらに降下しながら、飯田の胸中に去来したものはなんだったのだろうか。

飯田機が墜落したカネオヘ基地の現場には30年後、米軍が小さな記念碑をたてた。写真は真珠湾攻撃60周年の日に、攻撃に参加した元搭乗員も参列して行われた慰霊式典(撮影/神立尚紀)

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