あまりに非人道的な兵器「人間爆弾」を発案した男は、名前も戸籍も失い戦後も生きていた

私は今夏(2023年)、『カミカゼの幽霊 人間爆弾をつくった父』(小学館)という本を上梓した。大戦中、「人間爆弾」と呼ばれる特攻兵器「桜花」を発案し、戦後は戸籍も名前も失い、別人として生きた大田正一とその家族の数奇な運命を描いたノンフィクションである。

10月末、私は本書の取材のきっかけとなり、本の完成を待たずして亡くなった大田の義娘・大屋美千代の三回忌の命日に、丹波篠山の墓苑を訪ねた。墓石の下の納骨室には、マジックインキで名を記した大田正一、妻・大屋義子、そして美千代の骨壺が並んで埋葬され、墓石の裏には3人の名が並んで刻まれている。

桜花の発案者・大田正一が眠る墓苑

父・大田正一と母・大屋義子、妻・美千代の眠る墓を掃除する大屋隆司

だがじつは、1994年12月に大田が亡くなってからずっと、つい最近まで墓石にその名は刻まれていなかった。

前編記事<「人間を乗せるグライダー爆弾」…「あまりに非人道的な兵器」を発案した男の「気迫に満ちた言葉」>に続き、大田正一の生涯を語る。

加速する航空特攻構想

大田正一がもたらした「グライダー爆弾」(人間爆弾)の着想は、すぐに航空技術廠から航空本部へとまわされた。航空本部では、総務部第二課で将来機の技術開発を担当する伊東祐満中佐が窓口となり、改めて大田の話を聞いた。大田の話に感化された伊東中佐は、航空本部総務部第一課長・高橋千隼大佐に大田の案を報告した。高橋は伊東に、軍令部の意向をただすよう指示、伊東は、海軍兵学校で1年後輩にあたる軍令部第一部の源田実中佐に連絡をとる。

源田の動きは早かった。まず、大田の着想を上司の軍令部第一部長・中澤佑少将に報告し、裁可を受けた上で、第二部長・黒島亀人少将に伝えた。特攻兵器を自らも考案し、その実現に執着していた黒島が、「人間爆弾」の開発を積極的に承認したのは言うまでもない。源田はさらに8月5日の軍令部会議でその構想を発表し、新任の軍令部総長・及川古志郎大将からも採用許可をとりつけた。

軍令部の方針は、源田からふたたび航空本部の伊東中佐に伝えられ、航空本部長・塚原二四三中将の裁可も得た。航空本部はこの兵器に、発案者大田正一の名をとって「○大部品」と仮名称をつけ、空技廠に研究試作を命じた。8月16日のことである。空技廠では○大に「MXY7」の試作番号をつけ、三木技術少佐が機体設計にあたり、さしあたって10月末までに試作機100機を完成させることとした。8月18日、軍令部の定例会議で、黒島は「火薬ロケットで推進する○大兵器」の開発を発表している。

桜の枝を持って桜花の操縦席におさまった搭乗員

もはや「人間爆弾」の発想は大田正一という一介のノンキャリアの手を離れ、海軍全体を動かす大方針となったのだ。その責任は発案した大田より、多くの案のなかから大田案を採用、積極的に推進した軍令部の中澤佑少将や黒島亀人少将、源田実中佐、さらに航空本部をはじめとする「上層部」にあることは明白である。

大田は、軍令部で○大の開発が公のものになった8月18日、海軍航空技術廠附となって一〇八一空を去る。さらに10月1日、桜花を主戦兵器とする第七二一海軍航空隊(神雷部隊、司令・岡村基春大佐)が編成されるとそちらへ異動した。

大田正一。1944年12月の飛行服姿

桜花を題材にしたいくつかの書籍に、

「大田は、自ら桜花に搭乗するため操縦訓練を受けたが適性なしと判定された」

という主旨の記述が見られるが、たとえ桜花の操縦ができなくても、大田は歴戦の偵察員なのだから、命令ひとつで母機の一式陸攻の機長として出撃させることは容易くできたはずである。海軍がそれをしなかったのはなぜか。

これは推測になるけれども、操縦適性のあるなし以前に、桜花の発案者であり、仮名称○大に頭文字を冠した「象徴」である大田を死なせるわけにはいかなかったのではないだろうか。大田が死ねば、桜花という非人道的兵器を開発した責任を、「上層部」の誰かが負わなければならなくなるからだ。

戦果はほとんど上がらず

1945年3月21日、四国沖に現れた米機動部隊を攻撃するため、神雷部隊ははじめて、鹿児島県の鹿屋基地を発進した。一式陸攻は野中五郎少佐の率いる18機、うち15機に桜花を懸吊している。

だが、当初72機が予定されていた護衛戦闘機は前日までの空襲で消耗し、実際に出撃できたのは30機に過ぎなかった。神雷部隊は待ち構えた米軍戦闘機グラマンF6F約50機の襲撃を受け、米機動部隊にたどり着くことなく全滅した。

1945年3月21日、桜花を吊って鹿屋基地から出撃する神雷部隊の一式陸攻。この日が桜花の初出撃だった

1945年3月21日、米軍戦闘機のガンカメラが捉えた神雷部隊の一式陸攻。胴体の下に桜花を吊っているのが見える。この日、出撃した18機は全機が撃墜され、攻撃は失敗に終わった

以後、桜花の出撃はのべ10回におよび、米側記録との照合で、駆逐艦1隻撃沈、6隻に損傷を与えたことが判明しているが、神雷部隊は桜花搭乗員55名をふくむ715名もの特攻戦死者を出した。地上の整備員や特攻以外の戦死、殉職者114名を合わせると、神雷部隊の戦没者は829名に達する。沖縄に上陸後、未使用の桜花を手に入れた米軍は、この兵器に「BAKA」あるいは「BAKA Bomb」(バカボン=馬鹿爆弾)と名づけた。

鹵獲した桜花をもとに、米海軍が作成した透視図。桜花は米軍から「BAKA」あるいは「BAKA Bomb」と呼ばれた

1945年5月2日、新聞各紙に掲載されたリスボン発同盟通信の記事。この時点では海軍当局から桜花の存在は公表されていな

大田正一は、桜花搭乗員の訓練部隊である第七二二海軍航空隊で、飛行長を補佐する飛行士として、茨城県神之池基地で終戦を迎えた。1945年8月18日、大田は、基地にあった零式練習戦闘機に飛び乗ると、よたよたと離陸して鹿島灘の沖に消えた。海軍は大田をテスト飛行中の「航空殉職」と認定し、のちに戸籍も抹消された。

――だが、大田は生きていた。神之池基地を離陸後、鹿島灘の沖に消えた大田機は、海面に不時着水し、たまたま操業中だった漁船に救助され、宮城県の鳴子陸軍病院に収容されたのだ。

その後、大田は、各地で旧海軍の関係者の前に姿を現し、「大田が生きている」ことはいわば公然の秘密となっていた。だが、「茨城で牧場をやっている」「新橋の闇市に連れて行った」「北海道で会った」「密輸物資をソ連に運んでいる」……など、断片的な目撃談や噂はあったものの、その足取りは判然としなかった。

大田は、1949年に家族のもとから消え、1951年を最後に、海軍関係者の前からも完全にその姿を消してしまう。闇屋同士の争いに巻き込まれて殺されたのだ、という噂も立ったが、その行方は暗として知れなくなった。

名前も戸籍も亡くして生きる

海軍から死んだことにされ、戸籍も名前も失った大田は「横山道雄」を名乗り、日本各地を転々としたのち、1950年、大阪に流れついた。繊維業界の仕事をしながら、そこで出会った大屋義子と結婚し、3人の息子をもうけた。

横山道雄と名乗っていた1975年頃の大田正一

終戦直後、戦死したはずの軍人がじつは捕虜になっていて生きて還ったり、戦死公報が誤って同名の別人のもとに届いたりしたこともあり、戸籍がないことはさほど不自然ではなかった。義子は「そのうち復籍するのだろう」と、軽く考えていたという。

そのため、子供たちはみな戸籍上は義子の私生児とされたが、父の偽名である「横山」姓を名乗り、大田が自ら大工仕事をして建てた、ゴツゴツした要塞のような家から大阪市内の公立小、中学校に通った。

大田正一が自分で大工仕事をして建てた家。まもなく取り壊される予定である

自分で建てた家で餅つきをする大田正一。後ろにいるのは孫。名前も年齢も偽っていたが、よき家庭人の一面もあった

だが、長男の隆司が高校に上がる頃になって、改めて義子が大田に戸籍の回復を頼んだところ、大田は軍事雑誌の記事に掲載された「大田正一」の名を示し、「これがわしなんや」と、はじめて正体を明かしたのだ。それは、義子はもちろん、これまで自分の姓は「横山」だと疑うこともなく育ってきた隆司にとっても青天の霹靂だった。息子たちはそれぞれ、高校に上がるタイミングで母方の「大屋」姓を名乗ることになった。

家族思いの「良き父」だった

大田は、横山道雄と名乗ったまま、さまざまな職を転々とする。洋服地の見本づくりからセールスマン、鉄工所の金属加工の下請け、既製服の背広の袖だけを縫う仕事、染物工場、玉子豆腐工場、ガードマン……隆司の記憶にあるだけで20以上の仕事に就いたという。働く意欲も体力もあるが、戸籍がないので、身元の証明を求められたりすると辞めざるを得なかったのだ。一家の家計を支えたのは、つねに妻の義子だった。

1959年頃、就職するさいに撮られた証明写真。当時本人は「横山道雄」と名乗っていて、家族もそれを信じていた

1974年、島根県の義子の実家前で。右端が横山道雄と名乗っていた大田正一。右から2人目が「横山」と結婚した大屋義子

やがて隆司は美千代(旧姓・高根)と出会い、結婚。大田正一(横山道雄)、大屋義子夫妻と隆司、美千代夫妻が同居するようになる。美千代の目に映った義父は、大柄な体で声の大きい、世話好きな好々爺だったという。美千代が拾ったり、ペットショップで買ってきた犬たちも、家族のなかでなぜか大田にしかなつかなった。

2016年、左が大田正一の妻・大屋義子、右が大屋隆司の妻・美千代

大阪・梅田で働く美千代が帰宅するとき、急な雨が降ったりすると、自転車にまたがった大田が傘を手に待っていて、傘を美千代に投げるように手渡すと、一緒に帰るでもなく自転車を漕いで先に帰ってしまう。遅れて帰宅した美千代が「さっきはありがとう」と礼を言っても、照れくさいのか知らん顔をしている。美千代は大田の晩酌につき合い、息子たちも知らない過去の話を聞かされたりするようにもなった。

突然の自殺未遂

ところが1994年5月、愛犬を散歩につれて出た大田は、犬を木に繋いだまま、突然失踪する。和歌山県の白浜警察署から隆司に、

「三段壁から飛び降りようとしたところを保護している」

との電話が入ったのは、失踪から3日後のことだった。隆司が急いで迎えに行くと、大田は泣きながら、

「多くの戦友が命を落とした沖縄で死のうと残波岬に行ったが、すっかり観光化されていて、こんなところでは死ねないと思い、高野山に行った。そこで宿坊の若い僧侶に親切にしてもらって今日、こんどこそ死のうと白浜に来た」

と言う。自殺騒ぎのあと、大田の身体はみるみる衰え、家の裏に椅子を出して黙って空を見上げることが多くなった。やがて歩くこともできなくなったため、見かねた隆司は大田を淀川キリスト教会に診せた。

診断は、末期の前立腺がんで、余命3ヵ月だという。あとからわかったことだが、大田は高野山で出会った僧侶・宮島基行に、はじめて家族以外に自分の正体を明かした上で、「戸籍がないので保険にも入れず、もし入院などしたら家族に迷惑をかけてしまう」と、悩みを吐露していた。大田は自分の寿命が近いことを察し、沖縄と高野山で戦友たちに詫びた上で死のうとしたのだ。

1994年6月6日、白浜での自殺未遂の後、隆司と美千代に付き添われて再訪した高野山で。宮島基行(左)と大田正一。大田はこの約半年後に世を去った

大田はそのまま入院することになったが、無保険のため、莫大な医療費がかかる。これでは経済的にもたないと思った隆司は、なんとか父の戸籍を回復しようと、これまでのことを根掘り葉掘り訊いてみた。そこで隆司が驚いたのは、父が10歳も年齢を若く偽っていたことである。本人は大正11年12月生まれと称していて、それだとまだ71歳のはずだが、じつは大正元年8月生まれの81歳だという。

「正一」は「大正元(一)年」からとった名前だった。病に倒れる前は肌つやもよく、背筋もピンと伸びていて、家族でさえ71歳と信じていたのだ。本人はずっと「北海道出身」と称していたが、それも詐称で、出身地は山口県だった。隆司は、区議会議員の口添えを得て、区役所を通して父の元の戸籍を取り寄せた。そこに書かれていたのは、さらに驚くべき事実だった――。

大田は余命3ヵ月の診断のあと、なおも半年生き、1994年12月7日に世を去った。戸籍の回復はならなかった。遺骨は、母・義子が購入していた丹波篠山の墓所に葬られた。だがその墓石には「大屋家」とだけあり、「大田正一」の名はどこにも刻まれなかった。

戦後ものうのうと生きた「上層部」

桜花を発案したノンキャリアの大田が名前も戸籍も失い、別人を名乗ってひっそりと生きたのに対し、「特攻」という戦法を採用、実行した「上層部」の責任者たちは、特攻で死なせた部下に謝罪し割腹した大西瀧治郎中将や鉄道自殺した神雷部隊司令・岡村基春大佐などごく一部の例外をのぞき、戦後、自決することも身を隠すこともなく、それぞれが平穏に生き、天寿を全うした。

桜花を採用した直接の責任者といえる軍令部第一部長・中澤佑は終戦直後、責任を感じて自決するのではと、それとなく様子をうかがう部下たちを前に、「俺は死ぬ係じゃないから」と言い放った。

誰よりも特攻に執着した第二部長・黒島亀人は、海軍の機密文書を無断で焼却するなど証拠隠滅ともとれる行動をとっている。

大田の発案を利用して桜花の開発に奔走した源田実は、戦後、航空自衛隊トップの航空幕僚長を経て参議院議員を務めた。源田は、自著をもとに製作された東宝映画「太平洋の翼」の劇中、「千田参謀」と仮名ながらも、軍令部のなかでひとり「特攻反対」を叫び、本土防空のために新鋭戦闘機紫電改の部隊(三四三空)を編成するという、特攻を推進した事実とは正反対の巧妙なイメージ操作、いわば「経歴洗浄(ロンダリング)」を行った。

旧統一教会とのつながりも深く、1982年には統一教会と世界勝共連合が刊行する日刊紙「世界日報」に「風鳴り止まず」と題する回想記を329回にわたって連載、ここでも特攻について、〈これらの若人は、決して強制によって組織せられたものではない。それは疑いもなく祖国の急を救うべく、自発的意志によって募集に応じたものである。〉(第322回)などと、まるで他人事のように記しているのみである。

ようやく墓石に刻まれた「本名」

私のもとに、「大田正一の家族」を名乗る女性から、講談社を通して突然、電話があったのは2014年春のことだ。大屋美千代と名乗るその女性は、桜花を発案した大田正一の息子の妻だという。聞けば、テレビの戦争関連番組で、桜花を抱いた一式陸攻が米軍機に次々と撃墜される実写映像を見て、大好きだった義父が発案した兵器のために多くの若者が死んだことに改めて衝撃を受け、書店でたまたま手に取った『祖父たちの零戦』(講談社)の著者である私に話を聞いてほしいと電話をかけたのだという。

そのことを機に私は大田正一についての調査を始め、陸攻搭乗員を祖父に持つNHKのディレクター・久保田瞳にも美千代を紹介(久保田は2016年、大田と家族を題材にした番組『名前を失くした父』を完成させ、同年3月19日、NHK-Eテレで放送)したりしながら取材を続け、今年(2023年)6月30日、ようやく『カミカゼの幽霊  人間爆弾をつくった父』を刊行することができた。

だが、執筆中の2021年4月7日に大田正一の妻・義子が96歳で亡くなり、同年10月29日には美千代も、病がもとで本の完成を見ることなく世を去った。私は2022年春、義子と美千代の納骨式にも参列したが、そのときは本が未完成で、三回忌にはどうしても墓前に本を供えたかったのだ。

美千代の三回忌に墓前に供えた『カミカゼの幽霊』

美千代の三回忌に参列したのは夫の大屋隆司、隆司の弟・三郎、そして美千代の親友が2人、私の計5名である。

大屋美千代の三回忌に集った人たち

隆司は、父・大田正一が眠る墓に母と美千代を埋葬するにあたって、これを機に3人の名前を墓石に刻むことを決心した。2022年夏、死後30年近くを経て、初めて父の名が「大田正一」の本名で刻み込まれた。

大田正一の死後30年近くを経てようやく、その名が義子、美千代とともに刻まれた

美千代の三回忌の日、墓石の裏に刻まれたその名を見て、私は、ようやく大田正一の長かった戦争に一つの区切りがついたように思った。大田を利用し桜花を採用、開発した「上層部」の責任者たちも、すでに全員が故人である。

(文中敬称略)

『カミカゼの幽霊』

『太平洋戦争の真実』

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