戦国島津の「誰」? 謎の武家肖像 鶴嶺神社(鹿児島市)に伝わる 専門家「4兄弟の可能性も」

鶴嶺神社に伝わる「島津某像」(通常は非公開)。左側の白い部分は後世に復元された(尚古集成館提供、複製防止のため画像を加工しています)

 鶴嶺神社に伝わる「島津某像」(通常は非公開)。左側の白い部分は後世に復元された(尚古集成館提供、複製防止のため画像を加工しています)

 歴代島津家当主とその家族を祭る鹿児島市の鶴嶺(つるがね)神社に、島津一門の「誰か」を描いた「島津某(なにがし)像」が伝わっている。戦国島津が九州を席巻した時期の作とみられるが、人物は特定できていない。専門家は「肖像が残っていない義久やその弟たちの可能性もある」と指摘する。
 肖像は縦68センチ、横49センチで板に描かれている。落ち着いた表情で侍烏帽子(えぼし)に武家装束をまとい、右手に金の扇子、左腰に脇差しを差す。作風から、16世紀後半から17世紀初頭に描かれたとされる。
 尚古集成館によると、島津家歴代当主の菩提(ぼだい)寺には肖像画や木像が安置されていた。明治初年に、藩内の寺院は廃仏毀釈(きしゃく)で徹底的に破壊されたが、島津一門の肖像まで傷つけるのは恐れ多いとし、当時あったものは鶴嶺神社に集められたという。
 「某像」は、その後の西南戦争の戦災からも逃れたが、どの寺から神社に運び込まれたか記録はなく、明治期の資料には「御名不詳」と記載されている。
 現在、制作時期と考えられる時代に活躍し、肖像画が残る島津一門は、忠良、貴久、義弘と初代藩主の家久。戦国時代末期に九州統一の目前まで勢力を拡大した太守の義久は残っていない。
 松尾千歳館長(63)は「伝来の経緯から島津一門であることは間違いない。義久であってくれればとは思うが、手がかりはなく、確かめようがないのが現状」と語る。義久は豊臣秀吉に降伏した際に出家し、剃髪(ていはつ)しているが、「最も元気だった頃にさかのぼって描くこともある。ロマンを秘めた絵だと思う」と話した。

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