旅情をそそる「最南端」、鹿児島ご当地鉄道事情昔はブルートレイン、いまは新幹線の終着地

開聞岳をバックに走る指宿枕崎線。写真の区間は1日6往復の超ローカル区間(撮影:鼠入昌史)

最北端だとか、最南端だとか、そういう冠が着く場所にたどり着くことにはなかなかの魅力がある。実際に行ってみると、それほどのことはなかったりするのだが、むしろそれはたどり着くまでが楽しいということなのだろう。鉄道でいうなら、最北端の駅は宗谷本線の稚内駅、最東端の駅は同じ北海道は根室本線の東根室駅である。

で、最西端と最南端はどちら、となると、これが意外に難しい。ストレートに答えれば、沖縄を走るゆいレールの那覇空港駅が最西端、赤嶺駅が最南端だ。ただ、ゆいレールは2003年に開通した新参者で、普通鉄道とはちょっと違ったモノレール。沖縄にはゆいレール以外の鉄道はないから、突如現れた飛び地路線である。

新幹線ですぐ行ける

そして、この新参モノレールが登場したおかげで、最西端・最南端の立場を奪われてしまった駅がある。だから、ゆいレール登場以前に最西端・最南端をうたっていた駅は、「本土最西端」「本土最南端」などと言って“端っこの駅”としての立場を保っている。その立場でいうと、最西端は松浦鉄道のたびら平戸口駅、最南端はJR指宿枕崎線の西大山駅である。今回はJR最南端の西大山駅がある、鹿児島県の鉄道を旅してみようと思う。

ほかの地域から鹿児島に入る、いちばんオーソドックスな方法は新幹線だろう。九州新幹線に乗れば、博多から鹿児島中央駅まで1時間半もかからない。新大阪からでも乗り換えなしで3時間40分ばかり。

以前、博多に宿を取って午前中に福岡市内で取材をこなし、午後に新幹線に乗って鹿児島で取材、日帰りで博多に戻ったことがあった。疲れはするが、それくらいのことをできてしまうくらいに、鹿児島は近い。九州新幹線が全線開通したのは2011年。もう10年以上前のこと、すっかり当たり前のインフラとして定着している。

その九州新幹線が終着としているのが、新幹線で最南端となる鹿児島中央駅だ。駅ビルの上では観覧車がぐるぐる回る、鹿児島県内最大のターミナル。広大な駅前広場には、幕末にイギリスへ派遣された若い薩摩藩士たちの像が建つ。鹿児島といったら西郷どんだが、ターミナルの駅前でいきなり西郷どんの像ではないところがなんとも心憎い。

鹿児島中央駅

鹿児島中央駅は、新幹線の乗り入れによって西鹿児島駅から改称した、鹿児島市のターミナルだ(撮影:鼠入昌史)

そしてこの鹿児島中央駅前から、中心市街地である天文館やもう1つのターミナル・鹿児島駅などを結んでいるのが路面電車、鹿児島市電だ。1912年に開業した鹿児島の路面電車は、鹿児島駅前―天文館通―騎射場―谷山間を走る1系統と、鹿児島駅前―天文館通―鹿児島中央駅前―郡元間を走る2系統がある。谷山は「日本最南端の電停」だ。

鹿児島市電

鹿児島市電が南九州最大の歓楽街・天文館のアーケード前を通る(撮影:鼠入昌史)

鹿児島市電

鹿児島の中心市街地・いづろ通りを走る鹿児島市電の路面電車(撮影:鼠入昌史)

城山をトンネルで貫く

この市電を市役所前電停あたりで降りて、東に向かえば桜島が向こうに見える錦江湾。反対に西に行けば鶴丸城の異名を取る鹿児島城跡が広がり、その裏に城山がそびえる。城山は西南戦争最後の激戦地。西郷どん最期の地も、この城山にある。そして、城山の下をトンネルで貫くのが鹿児島中央―鹿児島間の鹿児島本線である。

城山トンネルと列車

城山トンネルを抜ける日豊本線国分行きの列車。「敬天愛人」の扁額がある(撮影:鼠入昌史)

倒幕の立役者にして明治の元勲、知らぬもののいない西郷どんだが、鉄道史においては鉄道建設に強く反対したことで名を残す。明治に入って新橋―横浜間の鉄道建設の動きが出始めたとき、それよりも軍備を優先すべしと先頭に立って唱えたひとりが西郷どんだった。そのおかげで、薩摩藩邸などがあった海岸線に線路を通すことができず、沖合に築堤を設けるハメになったという。

ちなみに、鉄道反対の立場をとり続けていた軍部は、西南戦争で鉄道の利便性を認識し、立場を改めている。そんな歴史をちょっとかじれば、西郷どん最期の地である城山を鉄道トンネルが抜けていることが、なんとも不思議な縁だと感じられてくるではないか。
そして、その城山のトンネル。鹿児島側には「敬天愛人」、西郷どんが好んだ言葉が扁額に刻まれる。反対の鹿児島中央側には大久保利通が好んだ「為政清明」の扁額。いろいろあっても、今も鹿児島の町ではこのふたりの存在感は大きいのだ。

鹿児島中央駅は、新幹線がやってくるまで西鹿児島駅といった。鹿児島本線の終点は鹿児島駅だが、長らく西鹿児島駅が事実上の終着駅になっていた。「はやぶさ」などのブルートレインの行き先が「西鹿児島」だったことを覚えている人も多かろう。反対に鹿児島駅は県名そのままの駅名なのに、ターミナルとしての意味合いは薄い。

鹿児島本線は新幹線開業で分断

鹿児島本線は、もともと門司港―鹿児島間の長大路線だったが、九州新幹線開通に伴って八代―川内間が第三セクターの肥薩おれんじ鉄道に転換された。そのため、いま鹿児島県内を通っている鹿児島本線は川内―鹿児島間だけだ。

おれんじ食堂

肥薩おれんじ鉄道の看板列車「おれんじ食堂」。東シナ海を見ながら走る(撮影:鼠入昌史)

途中には串木野や伊集院などの駅があり、薩摩半島の中央部を横断して鹿児島市内にやってくる。肥薩おれんじ鉄道区間には出水市や阿久根市があって、東シナ海を望める海岸線区間が風光明媚だが、鹿児島本線区間はほとんど内陸、海が見える場所はない。そして新幹線が通った今となっては、地域輸送専業のローカル線になっている。

鹿児島中央駅からは、日豊本線の列車も走る。日豊本線の終点は、これまた鹿児島本線と同じく鹿児島駅だ。ただ、運転系統上は鹿児島中央駅まで乗り入れる列車が多い。日豊本線は、桜島を見ながら錦江湾沿いを走り、霧島市内から内陸へ。財部―五十市間で宮崎県との県境を跨いで都城・宮崎へと向かう。ここには特急がいまも走っていて、「きりしま」で宮崎駅まで2時間ちょっとの所要時間である。

783系ハイパーサルーン

日豊本線の特急「きりしま」は宮崎・鹿児島両県を結ぶ。写真の783系ハイパーサルーンは、今は使われていない(撮影:鼠入昌史)

日豊本線は、錦江湾の北、鹿児島の2つの半島の付け根に位置する隼人駅で肥薩線を分けている。肥薩線は、霧島連山の間を縫って熊本県に入り(途中、ちょっとだけ宮崎県を通っています)、人吉盆地を経て球磨川沿いを走って八代へ。矢岳越えの車窓がよく知られるが、鹿児島県内では吉松駅までで、途中、嘉例川駅や大隅横川駅など、古い木造駅舎がいくつか残っている。

嘉例川駅

肥薩線の嘉例川駅は、レトロな木造駅舎で鉄道ファンにも人気が高い(撮影:鼠入昌史)

鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道は、海岸線を通って鹿児島にやってくる。ただ、このルートが完成したのは肥薩線よりも遅い。というのも、もともとは肥薩線が鹿児島本線の一部として建設されたからだ。海岸線ルートは江戸時代から参勤交代にも使われた主要ルートだったが、国防上の理由で軍部から反対されて内陸に線路を通すことになった。1909年、人吉本線の名で開通し、門司港―博多―鹿児島間が全通している。海岸線ルートが完成し、現在の形になったのは1927年のことだ。

「最南端」がある路線へ

なお、吉松駅から分かれて都城駅までを結ぶ吉都線も、もとは日豊本線の一部だったことがある。こちらは国防上の理由ではなく、都城―国分間の山間部に線路を通すのに難儀したから。いずれにしても、薩摩半島・大隅半島というふたつの大きな半島が海に突き出す鹿児島は、鉄道が到達するのもなかなか大変な場所だったのである。

矢岳越えの列車

“矢岳越え”で鹿児島に向かう肥薩線。いまは写真の熊本側の区間を含め、豪雨災害により八代―吉松間で運休中だ(撮影:鼠入昌史)

ともあれ、鹿児島の鉄道の旅をするならば、九州新幹線・鹿児島本線・日豊本線のいずれかが軸になる。そして、鹿児島本線ならばそのまま接している肥薩おれんじ鉄道の旅が続くし、日豊本線ならば肥薩線に向かうという手もある。

肥薩線が通る霧島は、坂本龍馬とその妻・お龍が日本人で初めての新婚旅行でやってきた場所なのだとか。さすが薩長土肥の筆頭、鹿児島にはいろいろなエピソードが転がっているものですね。

ほかに、鹿児島県には忘れてはいけない鉄道路線がある。鹿児島中央駅を起点に、錦江湾沿いを走って砂蒸しでおなじみの指宿温泉を経て、開聞岳を見ながら西に走って鰹節の町・枕崎へ。JR最南端の西大山駅がある、指宿枕崎線である。

指宿枕崎線は、全線を通して乗ると3時間近くかかるという長大なローカル線だ。末端の(つまり西大山駅のある)山川―枕崎間に至っては1日6往復しか走っていない。西大山駅とて、駅前に観光バスが停まっていて、何かのツアーの観光客でにぎわっていたりする。

1日6往復では列車で到達するのが難しいというのはわかるけれど、まあ、なんとも微妙な気持ちにさせられる。日中の普通列車は、ほんの数分だけ西大山駅で停車してくれるサービスがあるのはありがたい限りだ。駅前には、幸せの黄色いポストが立っている。

西大山駅と開聞岳

“JR日本最南端”の西大山駅。ホームからは開聞岳を望める(撮影:鼠入昌史)

そんなザ・ローカル線の指宿枕崎線だが、起点方は沿線にベッドタウンが広がっていて、さらに大学や高校などがあるのでお客が多い。朝の通勤時間帯、鹿児島中央方面の上り列車に乗る通勤客はかなり多いし、下り列車も通学の学生で混雑していたりする。まるで都市部の通勤路線そのものだ。

それが徐々に減っていって、確実にお客がいるのは温泉地の指宿あたりまで。そこから先が、徹底的なローカル線になるという、段階的な変化を見せる路線なのだ。観光特急「指宿のたまて箱」が走るのは、鹿児島中央―指宿間である。

消えた路線の夢の跡

鹿児島県内だけで完結する路線は、鹿児島市内の路面電車を除けば指宿枕崎線だけだ。宮崎県の南宮崎駅から延びる日南線は鹿児島県内に2駅のみで、志布志市志布志町志布志にある志布志駅を終点とする。

かつては薩摩半島側に宮之城線や山野線、大隅半島には志布志線や大隅線といったローカル線があった。ただ、国鉄末期にいずれも廃止されて姿を消した。

「指宿のたまて箱」

「指宿のたまて箱」は浦島伝説にちなんだ指宿枕崎線の観光列車(撮影:鼠入昌史)

沖縄を除いて“鉄道がないのに人口がいちばん多い市町村”である鹿屋市は、大隅線が通っていた大隅半島の中核都市である。また、薩摩半島には枕崎で指宿枕崎線と結び、ぐるりと半島を回る鹿児島交通の路線もあった。

こうした廃線を数えれば、現役路線以上のネットワークがあったといっていい。だからむしろ鹿児島の鉄道の本領は、いまはなき廃線たちにあるのかもしれない。

鹿児島の鉄道の旅をするならば、現役路線を巡るのもいい。が、消えた路線の跡も、そこかしこに明確に残っている。それをたどってみるのもまた、おもしろい最南端の旅である。

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