最後まで徳川慶喜を殺そうとしていた…明治維新の功労者・西郷隆盛の「敬天愛人」とは思えない意外な素顔

目的達成のためなら、犠牲が出ることも厭わない
明治維新の功労者として知られる西郷隆盛は、「敬天愛人」を座右の銘にしていたことから、情に篤いというイメージが根強い。ところが、実際にはそうではなかった。歴史学者の山本博史さんが監修した『日本史の有名人たち ホントの評価 偉人たちの「隠れた一面」から、歴史の真相が見えてくる!』(三笠書房)より、その人物像を紹介しよう――。

※本稿は、山本博文(監修)、造事務所(編集)『日本史の有名人たち ホントの評価 偉人たちの「隠れた一面」から、歴史の真相が見えてくる!』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

西郷隆盛像

「敬天愛人」とはほど遠い非情な一面

明治維新の最大の功労者として知られる、西郷隆盛。その座右の銘である「敬天愛人」は、今日では単に「天を敬い、人を愛する」と解釈されているが、西郷曰く「道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」(『南洲翁遺訓』)。

つまり、自分を愛するのと同じように人を愛することが「敬天愛人」なのである。

しかし、西郷が愛にあふれた人物であったとは言い難い。流刑先の奄美大島で西郷と知り合った漢学者の重野安繹は、次のように語っている。

「西郷は兎角相手を取る(敵をつくる)性質がある。これは西郷の悪いところである。自分にもそれは悪いということをいって居た。そうして、その相手をばひどく憎む塩梅がある。西郷という人は一体大度量がある人物ではない。人は豪傑肌であるけれども、度量が大きいとはいえない。いわば度量が偏狭である」(『西郷南洲逸話』)。

今日では豪放磊落のイメージが定着している西郷だが、人の好き嫌いが激しく、敵対した相手を許さない性質であったのは事実である。徳川慶喜との関係がまさにそれだ。

元来、薩摩藩は佐幕派であり、西郷は1864(元治元)年の第一次長州征伐では征長軍の参謀を務めていた。ところが、慶喜が外様藩を排した徳川一門のみによる政治を志向する中で、西郷と薩摩藩はしだいに幕府を見限るようになる。

慶喜への恨みを強め処刑を強く求めた

加えて、同年5月に発生した天狗党の乱への慶喜の対応も、西郷を苛立たせた。天狗党は慶喜の実家である水戸藩の尊王攘夷派志士の集団である。

反乱を起こした彼らは慶喜に尊皇攘夷の意志を伝えるために西上するが、慶喜はみずから討伐軍を率いて乱の鎮圧にあたった。やむなく投降した党員の半数にあたる352人が、斬首刑に処されたという。事の顛末を聞いた西郷は大いに憤り、慶喜への憎悪を強めていくのである。

その後の政局は、まさに薩摩藩と慶喜の政争であった。雄藩連合による公議政体の実現を目指す西郷は、大久保利通とともに薩摩・土佐・宇和島・福井各藩の代表者による「四侯会議」の開催にこぎ着けるも、結局は慶喜に主導権を握られてしまう。

起死回生の策として用いた討幕の密勅も、大政奉還により無意味なものとされてしまった。西郷と大久保がくり出す策は、ことごとく慶喜につぶされた。

だが、そんな慶喜も、1868(慶応4)年1月に鳥羽・伏見の戦いで敗北したのちは恭順の意思を示し、西郷と勝海舟の間で行なわれた会談の結果、水戸での謹慎が決まる。

ただし、西郷は交渉の直前まで慶喜の処刑を強く求めていた。それほどまでに慶喜への恨みは強かったのである。

「徳川家康」の武士の家紋

「いざというときは殺してしまえ」の精神

こうした不寛容や執念深さに加え、西郷は目的のためには手段を選ばない強引さと非情さも持ち合わせている。

時系列は前後するが、1867(慶応3)年12月、王政復古の大号令を受けて開催された小御所会議では、慶喜の処遇が主要議題となった。

大久保と岩倉具視は慶喜の官位返上と領地返納を求めたが、佐幕派である前土佐藩主の山内容堂や福井藩主の松平春嶽が強く反発し、容堂と岩倉の口げんかのような討論が続いた。

会議はしばしの休憩となり、大久保と岩倉は別室に控えていた西郷に状況を説明する。すると、西郷は「短刀一本あれば片がつく」と答えた。「いざというときは殺してしまえ」という意味である。

このやり取りを伝え聞いた容堂は、再開された会議ですっかり大人しくなってしまったという。

最終的に、この会議では慶喜の辞官納地が決まる。とはいえ、西郷がねらうのはあくまで武力による旧幕府勢力の打倒である。開戦の口実が欲しい西郷は尊攘派の浪士を雇い、江戸市中で略奪や放火、暴行などのテロ行為を起こさせた。

やがて江戸城の二の丸からも火の手が上がり、旧幕臣は浪士への武力行使に打って出る。市中を警備していた庄内藩は、1000の兵を率いて芝の薩摩藩邸を焼き討ちにした。

死者数は、双方合わせて75人。その中には、罪のない薩摩藩邸の使用人も含まれていた。この焼き

維新後、死にたがっていた姿

目的達成のためなら、犠牲が出ることもいとわない西郷は、自身の命にも頓着していなかった向きがある。1868(慶応4)年7月の上野戦争では、味方の薩摩藩士を皆殺しにするかのような大村益次郎の策を受け入れ、激戦地となる寛永寺の黒門前で陣頭指揮を執った。

山本 博文(監修)造事務所(編集)『日本史の有名人たち ホントの評価 偉人たちの「隠れた一面」から、歴史の真相が見えてくる!』(三笠書房)

山本博文(監修)造事務所(編集)『日本史の有名人たち ホントの評価 偉人たちの「隠れた一面」から、歴史の真相が見えてくる!』(三笠書房)

のちの明治政府で征韓問題がもち上がった際も、西郷は自分が殺される可能性を顧みずに朝鮮への渡航を強硬に主張している。維新を成し遂げたあとの西郷は、死にたがっていたともいえるのである。

不平士族とともに起こした西南戦争も、西郷による「集団自殺」との指摘がある。反乱軍の目的が政府の真意を問うものであれば、海路から東京に向かえばよかったはずだ。

しかし西郷は愚直に熊本鎮台への攻撃を仕掛け、自分を慕う士族とともに命を散らした。

「我を愛する心を以て人を愛する也」と「敬天愛人」の思想を説いた西郷だが、そもそも自分自身への愛はどれほど持っていたのだろうか。

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