西郷どん、大久保どん、尽きぬ関心

写真・図版
西郷隆盛の逸話とそれにまつわる絵画や遺品を展示した会場=鹿児島市上竜尾町、町田正聡撮影

  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 明治維新の立役者、西郷隆盛大久保利通。鹿児島が生んだ2人の英傑への関心は尽きない。12月も企画展や講演会が相次いだ。(ライター・町田正聡)

     西郷隆盛にまつわるエピソードを紹介する特別展「逸話の中の南洲翁」が、鹿児島市の西郷南洲顕彰館で開かれている。語り継がれている約30の逸話と、関連する遺品や絵画などを展示。西郷の多面的な姿を伝える。来年1月14日まで。

     よく知られたエピソードは、東京・上野にある西郷像の除幕式での糸子夫人の反応だ。「宿ん人(うちの人)はこげなお人じゃなか」。西郷は礼儀正しく、どんな身分の人に対してもきちんとした服装で応対したといい、銅像の着流し姿に納得しなかったという。

     一般にあまり知られていないのは、西郷の実名が「隆永(たかなが)」だということ。宮内省が西郷の実名を問い合わせた際、親友の吉井友実が誤って西郷の父の実名「隆盛」と届け出た。西郷は「今さら改める訳にもいかぬ」と、その後は隆盛を名乗ったとされる。

     容姿に関しては「ウド眼(巨眼)、ウドサァ(肥えた人)」がある。西郷は眼がギョロリと大きく、身長180センチ、体重108キロ。幼いころから人一倍大きな体で動作がのっそりと遅く、けた外れの落ち着きぶりだったという。

     おおらかでユーモアを感じさせる話は多い。狩りに行き、白鳥温泉(現宮崎県えびの市)近くの宿に泊まった時のこと。農繁期で住民が接待に困っていることを察した西郷は、囲炉裏の消し炭で板壁に「牛牛狐狐」と記した。「モウモウ、コンコン」すなわち「迷惑をかけてすまぬ、もう来ぬから」の意味だ。

     緻密(ちみつ)で用意周到な面も兼ね備えていたらしい。英国公使パークスを薩摩藩が鹿児島に招いた際、巨費を投じて接待しただけでなく、イギリスの通史や職制などについて書かれた本を取り寄せ、藩主らに知識を伝えて備えたという。

     「貧乏は恥ずかしいことではなく、貧乏に負けることが恥ずかしいこと」と説いた母マサの教えや、西南戦争資金調達のために発行した西郷札も紹介。西郷軍の勝算がなくなり、今後通用しない紙幣とわかっていても、「西郷さんの札ならお守りにする」と商人たちは何でも売ったという。

     このほか、陸軍大将にもかかわらず雨の中で一晩歩哨(ほしょう)に立ったり、坂道で重い荷物を運べずに困っている老人を陸軍大将の軍服姿のままで手助けしたり、西郷の人物像が浮かんでくる逸話が紹介されている。

     学芸員の糸野陽子さんは「西郷さんをより身近に感じてほしい。現代人が失いつつある美徳や人を思いやる心など、学ぶべきことも多い」と話す。

     一般200円、小中学生100円。休館日は月曜(祝日の場合は翌日)と12月29日~1月1日。

         ◇

     西南戦争で西郷隆盛を死地に追いやったとして、大久保利通の人気は鹿児島ではいま一つだ。そんな大久保の人物像を紹介する講演会が9日、西郷南洲顕彰館であった。西郷の偉業や遺品などを紹介する「西郷の本拠地」の同館で、大久保にまつわる催しを開くのは珍しく、約50人の歴史愛好家らが耳を傾けた。

     講演したのは同館学芸員の糸野陽子さん。同館のアンケートでは「大久保に関しても取り上げてほしい」との要望が少なくないという。

     糸野さんは、1910(明治43)年から翌年にかけて「報知新聞」に掲載された大久保の記事を紹介。生前の大久保と親しく交遊した人物や親族から、記者が聞き取ったものだ。礼儀にあつく、目下の者にも丁寧だったという人柄、漬物とたばこが好物だったことなどが記されている。

     大久保の次男で文相や外相を務めた牧野伸顕の談話も残る。子煩悩で、役所に出勤する直前まで幼い子供たちと戯れていた。教育熱心で、新しい学問を学ばせようと、牧野と兄を西洋人に預けたという。

     牧野によれば、大久保は西郷の出兵を最後まで信じなかった。西南戦争の後、「西郷の心事は天下の人には分かるまい。分かるのは俺だけだ」と言い、西郷について書き残そうとしていた矢先に暗殺された。「どんなことを記そうとしたのか、とても興味深い」と糸野さん。

     このほか、意思が強く沈着な気質や、部下に過ちがあっても叱(しか)らず責任を一切引き受けたこと、何事も手帳に書きとめていたことが、逸話などで残る。

     一方、明治の言論界でリーダーだった福沢諭吉は批判的だった。「人民の言論の自由を圧迫する独裁政治により、人民の気風を卑屈にした」と評した。

     糸野さんは「逸話や談話を通じて、私人と公人の大久保像の違いが見えてくる。そこから生身の大久保に近づけるように思う」と、締めくくった。

     聴講した鹿児島市の中村孝さん(68)は「目下の者にも親切で礼儀をおろそかにせず、金銭に対して清廉潔白な点など、西郷さんと共通する。見直しました。もっと広く知られたほうがいい」と話した。

         ◇

     西郷隆盛の生誕祭が、銅像のある鹿児島と東京・上野でそれぞれ営まれた。東京では200人ほどが出席しにぎわったが、鹿児島の参加はわずか11人。西郷の子孫や関係者は「人数は関係ない」「さすがにさびしい」と、思いは複雑だ。

     西郷は旧暦の文政10年12月7日(西暦1827年1月23日)生まれ。生誕祭は旧暦に合わせて12月に開かれている。

     3日にあった東京の生誕祭は、上野公園の西郷像周辺の清掃や西郷の教えの研究などに取り組む敬天愛人フォーラム21が主催。今年で22回目で、関東の鹿児島県人会などから毎年100~200人が参加し、詩吟や踊りの披露など盛大に行われる。今年は塩田康一知事や同公園のある台東区の区長らも出席した。

     一方、鹿児島市では7日、西南戦争の戦死者らを祀(まつ)る南洲神社であった。出席した11人のほとんどは主催する「西南の役従軍者遺族会」の関係者だった。

     会長の桂久昭さん(93)は、西郷の親友で共に城山で最期を遂げた元薩摩藩家老・桂久武のひ孫。西郷の偉業や遺品を伝える西郷南洲顕彰館を運営する顕彰会の理事長も務める。

     「もともと内輪だけで始めたので人数は気になりません」と語り、「西郷さんは、実名の隆永を父の名の隆盛と間違えられてもあれこれ言わなかった人。人数とか細かいことは気にせんでしょう」とも。

     生誕祭の様相の違いについて、西郷の子孫や関係者は複雑な思いのようだ。

     西郷のひ孫の西郷吉太郎さん(76)=川崎市=は東京の生誕祭に毎年出席する。「鹿児島は命日の9月に例大祭を行い、東京は生誕の12月に重きを置く違いでは」と話す。南洲神社の秋の例大祭には例年、2千人ほどが参拝し、薩摩琵琶や太鼓の奉納などもある。

     南洲神社の鶴田伊都雄(いつお)宮司(79)は「とらえ方は色々でしょうが、にぎにぎしくやらなくてもいいのでは」と話す。西南戦争のゆかりの地で、今でも時折、戦没者と見られる遺骨が見つかる。その際は生誕祭の後に供養しているという。

     東京の生誕祭を主催する敬天愛人フォーラム21の内弘志・代表世話役(74)は「鹿児島の参加者の少なさにはびっくり。いわば西郷さんの本場ですから、廃れないように若者への継承を願います」と語る。

     一方、鹿児島市城山町の西郷銅像横のビルでK10カフェを営む若松宏さん(63)は「この種の行事を呼びかける文化はもともと鹿児島にはなかったのでは」と話す。若松さんは西郷の妻糸子の実弟・岩山直方のひ孫にあたる。「人数がすべてではないが、本音はやはりさびしい。ふだん西郷さんの名前を使って恩恵を受けている人はいっぱいいるのに……」と嘆く。

     思いは様々だが、関係者が一致することがある。「2027年の西郷生誕200年は、県を挙げて盛り上げなければ」ということだ。西郷のひ孫で陶芸家の西郷隆文さん(76)=日置市=は「今から準備を始めなければ」と語り、理事長を務める西郷隆盛公奉賛会でも計画を検討中という。

    コメント