西郷隆盛「ロシアで生存」説が生んだ大事件の真相英雄の宿命?西南戦争で亡き後も大きな影響力

上野公園の西郷隆盛像

西南戦争後も「生存説」が根強く語られていた西郷隆盛(写真:momo/PIXTA)

近代日本の礎を創りながらも、「非情」「冷酷」というマイナスイメージが強い大久保利通。その実像に迫った連載「大久保利通の正体」が第58回で最終回を迎えた。今回は、番外編として、大久保の盟友、西郷隆盛の死がいかに大きな影響を残したかについて解説する。大久保とは対照的に、後世の人々に愛されている西郷隆盛。当時から絶大な人気を誇っていた。しかし、崇められすぎるのも考えものである。死後は「西郷生存説」が根強く語られて、その結果、大きな悲劇を呼ぶことになった。
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英雄たちにつきものの「生存説」

あれほどの英雄があっけなく、命を落とすはずがない――。そんな思いが湧いてくるからだろう。英雄の死には「生存説」がついて回る。

「牛若丸」の幼名で知られる源義経は、壇ノ浦の戦いで見事に平家を滅ぼすも、兄の頼朝と対立。朝敵として追われることになり、奥州平泉で自害している。

だが、実は自害せずに北海道へ逃げ、海を越えて大陸へ渡り、チンギス・カンになってモンゴル帝国を築いた……そんな言い伝えがある。そのため、北海道には「義経神社」があり、義経の木像が祭られている。

また、徳川家康を窮地に追い込み「日本一の兵」と言われた真田幸村にも、生存説がささやかれてきた。「大坂夏の陣」によって討ち死にしたとされる一方で、豊臣秀頼とともに大坂城を脱出し、鹿児島に逃れた……そんなうわさが広まることになる。

そして、明治維新の立役者でありながら、1877(明治10)年の西南戦争に敗北した西郷隆盛にも、やはり生存説が根強く唱えられ続けた。西郷の場合は、まだ生きているときから、ありえない伝説が広められている点で、ほかの人物たちとも一線を画しているといえるだろう。

西郷にまつわる伝説は、大きく分けて2つある。1つ目が「西郷が星になった」という「西郷星伝説」である。

どんな伝説かというと「毎晩1時ごろに辰巳の方向に現れる赤色の星を望遠鏡でよく観察すると、陸軍大将の制服を着た西郷隆盛の姿が見える」というもの。まるで月のウサギのような扱いである。

伝説が広まったきっかけは、浮世絵版画の「錦絵」である。江戸時代中期に生まれた錦絵は、明治初期には色も鮮やかなものになり、話題性のあるテーマで描かれるようになった。錦絵と欧米のニュースを合わせた「錦絵新聞」が多数発行されたのも、明治初期だ。

そんななか、月に浮かぶ西郷の姿を描いた錦絵が爆発的な人気を呼ぶ。そのうちに、物干し台から「西郷星」を見物しようとする人が続出したという。

西郷星を描いた錦絵は何種類もあるが、そのうちの1つが、1877(明治10)年の「鹿児島各県 西南珍聞」だ。まだ、西南戦争が終わっていなかったころから、西郷はすでに伝説化していたことがわかる。

西郷はロシアに逃亡している!?

そんな西郷だから、死後も突拍子もないうわさが広がることになる。それは「西南戦争の後も西郷は生き延びて、ロシアに脱出している」というものだ。なぜ、そんなうわさが流れたのか。西郷の死を知ったとき、大久保利通は大隈重信や伊藤博文にこんなふうに知らせている。

「西郷1人の首だけがない。探索中である。詳細はあとより」

政府軍の間では当初、自刃した西郷の首を発見することができなかった。そのため、「西郷が実はどこかで生きている」といううわさが広められることとなった。

それにしても、なぜロシアなのか。

デマが流されたきっかけは、1891(明治24)年3月25日の鹿児島新聞に掲載された、ある投書だった。その内容は、次のようなものだ。

「西郷がシベリアでロシア兵の訓練を行い、1884(明治17)年には黒田清隆が西郷を訪ねて、2人で日本の将来について議論を重ね、1891(明治24)年に帰朝すると約束した」

妙に具体的だったせいか、新聞各紙がこの風説を取り上げた。西郷の生存を望む国民たちがこぞって読むと、またメディアがそれに応えるべく、報道が過熱していく。新潟の「北辰新聞」にいたっては「西郷の生死について多数決で決める」という「珍」企画まで行っている。

ちなみに、西郷の首は、官軍歩兵第7連隊の千田登文中尉が発見。山県有朋によって首実検されている。それでも、人は信じたいうわさ話を追い続ける。その結果、「西郷ロシアから生還説」を信じ込んだ男が、とんでもない事件を引き起こす。

ロシアの皇太子ニコライを襲撃

1891(明治24)年4月、ロシアの皇太子ニコライが来日する。例のうわさによると、西郷がともに帰国するはずだったが、当然、その姿はどこにもなかった。それでもまだ信じたい人たちは諦めずに、幻想を追う。今度は「ロシア将官のなかに西郷に似た人物がいた」と新たなうわさが生まれるなど、風評はなかなか収まらなかったようだ。

もっとも「西郷ロシアから生還説」が信じられてきたのは、何も人気者だったからだけではない。当時の明治政府は、不平等条約の解消は道のりが遠く、大国ロシアの脅威にさらされるなど、課題が山積みだった。

あの西郷ならば、日本が直面する難題を解決してくれるのではないか。そんな期待があったからこそ、人々は荒唐無稽なうわさ話を積極的に信じようとしたのである。そして、ニコライの来日から1カ月後、大事件が起きる。長崎、鹿児島に立ち寄ったニコライは、神戸から京都へ。その京都から滋賀への日帰り観光中のことである。

大津・京都間を人力車に乗って移動するニコライに、暴漢が襲いかかったのだ。

犯人はあろうことか警備巡査で、津田三蔵という男だった。津田はサーベルを持って、ニコライを斬りつけた。幸い、咄嗟に車夫が身を挺して皇太子をかばったおかげで、ニコライは右側頭部に9センチ近くの傷を負ったものの、命に別状はなかった。これがのちに「大津事件」と呼ばれることとなった。

本来は守るべき国賓に警備員が刃を向けたのだから、大問題である。しかも、その相手が大国ロシアの皇太子だ。明治政府は大いに慌てて、謝罪対応に追われた。明治天皇はすぐさま京都へ足を運び、ニコライを見舞っている。

西郷が帰ってくるどころの話ではないが、犯人の津田による供述から、意外な動機が判明する。ある日、津田は新聞でとりあげられていた、明治天皇のこんな言葉を目にした。

「もし西郷が帰ってきたなら、西南戦争の官軍側の勲章を取り上げるか」

ジョークを真に受けて焦った津田三蔵

実際に、こんな発言があったかどうかは定かではないが、根強い「西郷ロシアから生還説」へのジョークであることは、すぐにわかる。

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しかし、津田はこれを真に受けて、大いに焦ってしまう。ほかならぬ津田自身が、西南戦争に官軍として参加しており、勲七等に叙せられていた。それは、津田にとって人生最大の誇りでもあった。

「もし、西郷が帰ってくると、勲章を取り消されてしまう」

それだけは避けなければと、津田は西郷を連れてきたとうわさされるニコライを暗殺しようとしたという。これが大津事件の真相とされる説の1つだ。そのほかに、津田が以前から日本に強硬なロシアへの反感があったという説もある。いくつかの理由が組み合わさって、凶行に及んだのかもしれない。

このころ、西郷の死から、すでに15年が経とうとしている。それでもなお、伝説として語り継がれていた西郷。さすがに生存説は下火になっていくものの、その人気は不動のものだ。それがゆえに、朴訥で不器用なイメージと異なり、策略家だった西郷の素顔が、今でも話題に上ったりもする。嫌われ者の大久保とは違う意味での苦労や誤解が、西郷にもつきまとってきたといえるだろう。

【参考文献】
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
西郷隆盛『大西郷全集』(大西郷全集刊行会)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』(ミネルヴァ書房)
瀧井一博『大久保利通: 「知」を結ぶ指導者』(新潮選書)
佐々木克「西郷隆盛と西郷伝説」『岩波講座日本通史 第16巻』(岩波書店)
「維新の英雄、幻の帰還 第9回 西郷生存伝説の狂騒」(2013年10月27日付日本経済新聞)

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