神々の墓、なぜ鹿児島に? 新視点の明治維新史を出版

ライター・知覧哲郎2022年6月7日

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著書を手にする窪壮一朗さん=2022年5月16日午後5時32分、鹿児島県南さつま市大浦町、知覧哲郎撮影

 なぜ「神々の墓」は鹿児島にあるのか――。
農業やブックカフェを営むかたわら、郷土の歴史を研究する鹿児島県南さつま市大浦町の窪壮一朗さん(40)が、その謎を追った「明治維新と神代三陵―廃仏毀釈(きしゃく)・薩摩藩国家神道」(法蔵館)を出版した。
幕末明治の薩摩藩の宗教政策や明治政府の宗教行政との関わりを考察。政治的な思惑で神話が現実化していく過程が刺激的だ。

 「神代三陵」とは、日本書紀古事記に登場するニニギノミコトら天孫降臨から神武天皇に至る3代の神々の陵墓。
薩摩川内市の可愛(えの)山陵と霧島市の高屋(たかや)山上陵、鹿屋市の吾平(あいら)山上陵を指す。
明治政府が1874(明治7)年に定め、現在は宮内庁が管理する。

 窪さんは同書で、神武天皇陵奈良県橿原市)が幕末に「創り出された」事例から書き出し、「天皇陵が幕末には尊王攘夷(じょうい)の象徴として、維新後は『万世一系』の歴史的証拠として時の政権に利用されてきた」と指摘した。

 そのうえで「三陵」の決定に重要な働きをした薩摩藩出身の国学者田中頼庸(よりつね)に注目した。
田中の島津久光への建言で明治初期の廃仏毀釈は苛烈(かれつ)を極め、藩内で実現した「神道の国教化」は、後の国家神道や「神の国」の思想につながっていった……。

 最終章では「国家が神話を事実だと公認したことが問題で、神代三代の神話は受け継いでいくべき地域の遺産」と記し、「神話は国家のものではなく、我々のものだ」と主張する。

 歴史の編纂(へんさん)に執念を燃やした晩年の島津久光の心情や、1940(昭和15)年の紀元2600年での神武天皇の「聖地」を巡る鹿児島、宮崎両県の争いなど、後日のエピソードも豊富だ。

 窪さんは鹿児島市出身。
東京工業大理学部を卒業して文部科学省に入省。
2008年に退職し、南さつま市に移住した。
中学生のころから宗教に興味があったが、帰郷しさらに郷土のことを知りたくなった。

 たまたま訪れた高屋山上陵を見たのをきっかけに三陵に関する資料や論文類を読み解き、調査・研究の成果を自身のブログ「南薩日乗」に連載。本はその内容を加筆、修正し、読みやすくした。

 窪さんは「神話を現実化したのはわれわれの先祖が犯した過ちだが、明治政府の宗教行政に薩摩藩が影響を与えていたことを多くの人は知らないのでは。
改めて国家と宗教について考えるきっかけになればうれしい」と話している。

四六判、239ページ。
税込み1870円。主な書店で販売中。詳細は窪さんに電話(090・5767・9768)かメール(shop@nansatsu.shop-pro.jpメールする)で。
(ライター・知覧哲郎)

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