「倒幕はしない」同盟だった?
幕末の歴史物語の名シーンとして語り継がれているのが、薩長同盟が結ばれたシーンです。
薩長同盟とは、それまで犬猿の仲だった長州藩と薩摩藩が、いがみ合っていた過去を水に流そう、そして同盟を結ぼうということで1866年に成立したものです。
特に、この薩長同盟締結の場面は、坂本龍馬の物語の中で描かれることが多いです。坂本は両藩の仲介を果たした人物で、彼のおかげで薩長は結束することができ、「新しい日本」を作るための起爆剤となった――というストーリーで認識されているからです。
ただ、この薩長同盟の目的については、最近は通説と異なった見方も出ています。
薩長同盟は京の薩摩藩邸で行われていますが、この時に交わされた同名の条文には倒幕に関する記述は存在していないのです。
その後の歴史を見ると、実際には薩長連合が武力によって倒幕を果たしています。また、歴史物語の中でも、薩長同盟はまさに「今の幕府を倒すために」結ばれたものとされることが多いです。
つまり、一般には薩長同盟は軍事同盟として認識されているはずなのですが、条文には倒幕についての内容は一切ないのです。これはどうしたことでしょう?
薩摩に頼った長州藩
まず、薩長同盟の条文はいくつかありますが、その主なものは「長州征伐が再開されれば薩摩藩は京と大阪に二千の兵を送る」「戦局が、長州の方が有利なら朝敵解除の工作をする」「長州の濡れ衣が晴れれば、両藩は国のために力を合わせる」などといったものです。そこに倒幕という文字はありません。
では、この同盟は一体何のために結ばれたのかというと、それは何より長州藩を助けることでした。
1863年に起きたクーデターによって、長州藩は京から追放されていました。その後に起きた蛤御門の変(禁門の変)は、長州藩が状況を打破するために起こしたものだったのですが、これによってかえって長州は朝敵として指定されることになり、いわゆる第一次長州征伐で軍事討伐の対象となっています。
これに対して長州藩は表向きは幕府に恭順したものの、幕府はなおも締め付けを厳しくしたので、藩はまさに崩壊寸前でした。
では、藩の存続のためにはどうすべきか。そこで頼ったのが薩摩藩です。
しかし薩摩藩はと言えば、この時点では幕府を倒すことまでは考えていませんでした。西郷隆盛が考えていたのは有力諸藩による連合政権を樹立することで、これをもって幕府に対抗し、幕府の影響力を削ごうとしていたのです。
彼が長州藩を放っておけなかったのは、もしもここで長州が崩壊してしまえば幕府の力が高まるおそれがあったからでした。
薩長同盟の「仮想敵」は
とはいえ、薩摩藩は武力行使について全く頭になかったわけではありません。同盟の条文には「会津及び一橋などが朝廷を味方とし、要求を拒んだ場合は決戦に及ぶ」と書かれています。
この「会津と一橋」というのは、当時、朝廷の後ろ盾を得て国政の重要部分を担っていたグループのことで、研究者の間では「一会桑政権」とも呼ばれています。
長州征伐を主導したのもこのグループで、薩摩藩は、彼らが薩長同盟の要求を拒むなら挙兵もありうると考えていたことが分かります。
このように、薩長同盟は武力行使の可能性を全く考えていなかったわけではありませんでしたが、いわば「仮想敵」はごく限られた一派であり、この時点では倒幕までは考えていなかったのです。
薩長同盟所縁之地石碑(京都市上京区・Wikipediaより)
その後の歴史の流れはご存知の通りです。第二次長州征伐では、薩摩藩の物資援助のおかげで長州藩が勝利を収めました。そして朝敵指定も解除され、薩摩・長州の両藩はこの協力関係を土台にして倒幕へと進んでいくことになるのです。
大局的に見れば、薩長同盟の目的が長州復権にあったのか倒幕にあったのかというのは誤差に過ぎず、結果的に討幕はなされたわけです。だからわざわざ論う程でもないのかも知れません。
しかしこうした微妙なニュアンスが変われば、私たちが慣れ親しんできた歴史物語の様相もがらりと変わります。今後はこういったシーンの描かれ方も今までとは異なってくることでしょう。
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