「日本の焼酎」、その歴史の扉を初めて開いた「誰もが絶対に知っているヨーロッパ人の名前」

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焼酎は、日本で造られた日本ならではの酒です。古来、日本で飲まれてきた清酒よりは新しいですが、焼酎の始まりは500年ほど前にさかのぼります。その成り立ちを追っていくと、造られた土地の風土性は保ちながらも、その時代の文化とともに少しずつ形を変えて日本人に親しまれてきたことが良くわかります。焼酎を知るための旅の第一歩として、まずは歴史を辿っていくところから始めましょう。

*本記事は、鮫島 吉廣,高峯 和則『焼酎の科学』(ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。

最古の記録「オラーカ」 ─ザビエルへの報告書

フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のため鹿児島へ上陸したのは、1549(天文18)年8月15日(旧暦7月22日)のことです。その船に日本人青年、弥次郎が同行していました。弥次郎は薩摩半島南端の山川の出身です。

ザビエル来日の3年前、弥次郎は誤って殺人の罪を犯し、山川港へ入港していたポルトガル船に助けられ、鹿児島を脱出しました。当時、16世紀前半期、中国の明朝はポルトガルとの交易を禁じたため、ポルトガル船が交易を求めて山川港へ入港していたのです。

弥次郎を助けた貿易商人兼船長のジョルジェ・アルバレスは、ザビエルの信奉者でした。アルバレスは弥次郎をマラッカまで連れて行き、ザビエルに紹介します。その後、非常に優秀で真面目な求道心を持った弥次郎をみて、ザビエルは日本行きを決意することになります。アルバレスは日本へのキリスト教伝来の陰の功労者だったといえます。

日本への関心を高めたザビエルは、アルバレスに日本に関する報告書を依頼します。アルバレスは1546(天文15)年、およそ半年間山川に滞在していましたが、山川を中心とする当時の状況を、地理・気候・動植物・農産物・社会生活・風俗・宗教など多岐にわたって記録した「日本の諸事に関する報告」をザビエルに書き送りました。この報告書は、ヨーロッパに伝わった事実上最初の本格的な日本情報と言われています。

この中に「飲み物として米からつくるオラーカ(orraqua)」があり、「この地には多数の居酒屋や旅館があり、そこでは飲食物や宿泊が提供されている」とあります(岸野久・訳『アルバレスの日本報告』吉川弘文館)。オラーカとは、原語がアラビア語「araq(蒸散)」で、これがポルトガル語になったもので「蒸留酒」を意味します。この報告書によって、ザビエル来日の3年前、1546年には薩摩半島南端の山川地方で米焼酎が飲まれているのが明らかになりました。現在のところ、これが日本で作られた焼酎のもっとも古い記録です。

ザビエルは1550(天文19)年9月に鹿児島を去りますが、この1年の間にザビエルも焼酎を試飲したことがあったでしょう。ザビエルは焼酎を口にした最初のヨーロッパ人の一人かもしれません。ちなみに、この頃まだサツマイモは日本に伝来していません。

もっとも古い“焼酎”の文字 ─焼酎の恨みは怖い!

前述のザビエルへの書簡が公になったのは1979年のことであり、それまでは郡山八幡神社の落書きがもっとも古いものとされていました。1954(昭和29)年に鹿児島県大口市(現・伊佐市)の八幡宇佐宮(郡山八幡神社)の改修工事がおこなわれ、その際、貴重な発見がありました。本殿の東北隅の柱貫の一端から、木片に墨書された落書きが発見されたのです。

それには「其時座主ハ大キナこすてをちやりて一度も焼酎ヲ不被下候 何共めいわくな事哉 永禄二歳八月十一日 作次郎 鶴田助太郎」と書いてありました。鶴田姓は大工職に多いことから、大工の棟梁とその弟子によるものと考えられています。意味は「神職が大変なケチで一度も焼酎を飲ませてくれなかった。なんとも迷惑なことよ」、と焼酎を飲ませてくれなかった恨みを書き残して、その木片を何事もなかったかのように元の柱貫に隠していました。

書かれたのが1559年(永禄二歳)で、発見されたのが1954(昭和29)年ですから、400年もの間、「焼酎を飲ませてくれなかったケチ、ケチ」とささやかれ続けたご神職もかわいそうなものです。それだけ焼酎が飲まれていたということでしょうが、焼酎の恨みは何とも怖いものがあります。

発見された当時これが大きな話題になったのは、文面の面白さとともに、〈永禄二歳八月十一日〉と日付が入っていることと、現在と同じ「焼酎」という文字が書かれていたことです。

これが見つかるまで「焼酎」は、「焼酒」の当て字だと考えられていました。「しょうちゅう」という言葉は、不思議な響きを持っています。漢字発祥の国、中国には昔も今も「焼酎」という熟語はありません。そこで蒸留酒を意味する「焼酒」が中国語で「しゃうちう」と発音されることから、「酎」の字を充てたと考えられていたのです。ところが最古の落書きには、現在と同じ「焼酎」の字が使われていて、他で使われることのない「酎」の字が「焼酎」の中に化石のように使われ続けてきていたことがわかったのです。

この落書きには何を原料として造られた焼酎なのかは書いてありませんが、大口が米焼酎の産地人吉に近いことと、後に見つかったアルバレスの記録に南薩摩で米焼酎が飲まれていたと記されていることから、郡山八幡神社の焼酎も米焼酎だったと考えられます。

ちなみに「焼酎」の「焼」は蒸留のことを、「酎」は濃い酒、強い酒を意味しています。つまり「焼酎」とは、味のある蒸留酒、強い酒のことを意味しているのです。

これらの記録から1500年代半ばには、焼酎が広く薩摩で普及していたことがわかります。少なくとも焼酎はその50年位前から造られていたと思われるので、焼酎の歴史は500年といわれています。

さらに連載記事<日本の「焼酎」、じつは「謎だらけの酒」だった…「衝撃的すぎる7つの不思議」>では、焼酎の7つの不思議について解説します。

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