山形屋の歴史【前編】江戸時代に創業、西南戦争で焼失…第一次大戦で「船のほうがもうかる」とすすめられた経営者は言った

山形屋の歴史【前編】江戸時代に創業、西南戦争で焼失…第一次大戦で「船のほうがもうかる」とすすめられた経営者は言った | 鹿児島のニュース|MBC NEWS|南日本放送

鹿児島市の百貨店、山形屋が金融機関の支援を受けて、経営再建に着手することが分かりました。街の人たちや買い物客からは「頑張って欲しい」という声が聞かれました。
江戸時代から鹿児島の経済に深く根付いてきた山形屋は、長い年月の中で、数々の苦難を乗り越えてきています。

この記事では、創業から260年を超える歴史をまとめた社史『山形屋二百六十七年 株式会社設立百年記念』(2018年発行)をひも解きながら、山形屋のあゆみをお伝えします。初回は江戸時代の創業から戦前までです。(後編は「激動の昭和~平成」です)

(本記事は2019年に放送した内容を再構成したものです。肩書や年齢は当時のものです)

「ふるさとのデパート」創業は江戸時代 ルーツは山形県

鹿児島市の繁華街・天文館のデパート・山形屋には、平日、休日問わず多くの人が買い物に訪れます。

(女性買い物客)「7階でお子様ランチを子どもに食べさせたり、子どもの洋服を買ったりした。長い付き合い、山形屋とは。60年以上。」
(男性買い物客)「人に物を贈る時はここというイメージ。」

鹿児島市金生町に店を構え「ふるさとのデパート」として長年親しまれていますが、そのルーツは東北・山形です。

山形で生まれた初代・源衛門が1751年=宝暦元年に創業し、紅花や呉服を山形から上方に行商していました。

1772年=安永元年。当時の薩摩藩主、島津重豪が商業振興のため、全国から商人を招いていると知り、源衛門は薩摩藩に移ることを決意します。

「山形屋の始祖・初代源衛門は紅花の取引を手始めに商いの道へ分け入り、やがて一家を挙げて南の果て薩摩に根を下ろした。」(山形屋社史より)
薩摩に来た源衛門が、今の鹿児島市金生町に開いたのが呉服店・山形屋です。


岩元恭一氏は2022年に死去 肩書・年齢は2019年当時のものです

故・岩元恭一社主(当時)「よくぞ鹿児島に来てくれたと思う。あの当時の日本でそこまで行動できるどうか…よくやられた。感服している。」

西南戦争で店も街も全焼…木材高騰の中再建

源衛門以降、呉服と古着を販売し鹿児島での礎を築きますが、1821年、鹿児島城下を襲った大火事で店が焼けてしまいます。

さらにおよそ50年後の1877年=明治10年、西南戦争で再び店が焼失。街のほとんどが焼け、木材が高騰する中、金生町に店を再建し商いを続けました。

のれんに「岩」の字と「山形屋」の字が染め抜かれている

時代に合わせ商いを変える 珍しかった「定価販売」に踏み切る

その商いのやり方は時代の流れとともに変わりました。江戸から明治の呉服店では、客の注文を聞いてから商品を出し、客の身なりや身分を見て価格を変える「掛け値」が一般的でした。

そんな中、山形屋は明治中ごろに大転換を図ります。商品を店頭に並べて決まった価格で販売する「正札掛け値無し」に踏み切ったのです。自由に品物を見られて、誰にでも同じ価格で売るー。顧客のためを考え、全国でも早い時期での導入でした。

大正時代にデパートの第一歩 女性店員の初採用が「ベルク」の誕生へ

そして大正時代、山形屋は百貨店=デパートとしての一歩を踏み出します。当時、神戸から西に百貨店はありませんでした。

(社史担当の上荒磯道治さん)「大正時代の建物は鉄筋コンクリート造りで、百貨店としては全国で3番目に造られた。」
1916年=大正5年には地下1階、地上4階の新しい店舗が完成。化粧品や帽子、雑貨なども扱いました。

1階には女性店員が初めて採用され評判に。かいがいしく働く姿は、鹿児島大学の前身、七高の学生たちのあこがれの的になりました。

「おい、ベルクへ行こう」七高生たちは山形屋のことをドイツ語で「山」を意味する「ベルク(Berg)」と呼び、連れ立って女性店員を眺め、3階の食堂に行くのが定番だったといいます。

この愛称は、今もイベントスペースの「天文館ベルク広場」やレストランなどを経営するグループ会社「ベルグ」として残っています。


七高生と女性店員

「関西以西随一」と称えられ、欧米から輸入したエレベーターも備えていました。

(上荒磯道治さん)「時代の最先端の技術を導入し、エレベーターを研究して安全であることを確認してアメリカから輸入した。顧客本位という考え方は山形屋に根づいている。」

総工費は今の15億円「船のほうが儲かる」と勧められた経営者は言った

総工費は39万円、今の15億円にも上る額でした。当時は第一次世界大戦中で世界的な船舶不足。

時の経営者・岩元信兵衛は、友人から「船を作って海運業をしたほうがもうかる」と言われ、次のように答えたといいます。

「船にカネをかけたほうがもうかることは知っている。しかし、私は堅実地道に、郷里の、社会のためになるデパート建設に投資する。」

「地域で暮らす人たちのために」山形屋がずっと大事にしてきた精神です。
故・岩元恭一社主(当時)「時代時代でいろいろな出来事があったし、文化も変わってきている。そこに住んでいる方々のためになっているかと常に自分自身を見つめてきたから今日がある。今後もどんな文化になって行こうが、これは大切なこと。」

山形屋が直面した戦争、そして山形屋にとっての鹿児島とは…、昭和以降の歴史は後編に掲載します。

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