戊辰戦争で「賊軍」と呼ばれた男たちのその後 【後編】

今回は前編に続いて後編である。

戊辰戦争で敗れ、「朝敵、賊軍」となってしまった旧幕府軍たち。

彼らは土地を没収され故郷を追われ、過酷な環境の中で生き抜いていた。

ある庄内藩士たちのその後

画像 : 酒井忠篤

幕末の庄内藩は、譜代大名・酒井忠篤(さかいただあつ)を藩主とした17万石の藩であった。

外様大名が多い奥羽地方にあって会津藩と共に徳川家に忠誠を尽くす藩であり、江戸市中取締役となり、薩摩藩とは反目する関係にあった。

薩摩藩は西郷隆盛の命令で、江戸市中を騒擾化して「薩摩御用盗(さつまごようとう)」と呼ばれる略奪と放火を繰り返した。
それを取り締まり、薩摩藩邸を焼き討ちにしたのが庄内藩だったのである。

戊辰戦争において、薩摩藩は庄内藩を逆恨みして奥羽鎮撫軍(新政府軍)を差し向けた。
奥羽の戊辰戦争で初めて戦火が交わされたのが、庄内藩兵士と薩摩藩兵士が対戦した「清川の戦い」である。

初めは薩摩軍が優勢であったが、支藩の松山藩や鶴岡城から出兵した援軍で、庄内藩兵士が薩摩藩兵士を撃退した。
庄内兵は天童を襲って新政府軍を追い払い、薩摩の副総統の沢為量(さわためかず)は新庄を脱出して秋田に向かい、庄名兵士は新庄・本庄・亀田を攻めて無敵を誇った。

実は庄内藩は、7連発のスペンサー銃など最新式の鉄砲や大量の弾薬を装備し、訓練された強力な軍隊を作り上げていた。
また、庄内兵士4,500人のうち2,200人が農民や町民によって組織された民兵であり、領民と藩との結びつきがとても強かったのである。

しかし同盟諸藩は次々に新政府軍に恭順・降伏していった。

さすがの庄内藩も孤立を恐れて秋田戦線から退却し、会津藩が降伏した4日後の明治元年9月26日、無敗のまま降伏したのである。

同じ賊軍として戦った会津藩は23万石から3万石と大幅に減封され、不毛の地・斗南に追いやられ、藩士やその家族は地を這うような苦しい生活を強いられた。
しかし庄内藩のその後の歩みは、会津藩と全く異なるものであった。

現在の山形県鶴岡市松ヶ丘地区、元庄内藩士の子孫たちが数多く暮らしているこの地では、各家庭に意外なものが大切にされている。
なんとそれは「西郷隆盛」の肖像画で、元庄内藩士のほとんどの家には西郷の肖像画が飾られているのである。

画像 : 西郷隆盛 wiki c

西郷は庄内藩の人たちから見れば、自分たちを賊軍に追い込んだ憎い仇のはずである。
それなのになぜ西郷の肖像画が各家庭に飾られているのだろうか?

実は明治維新の約100年前、薩摩藩と庄内藩とは強いつながりがあった。

鎖国政策のため外国との貿易は禁止されていたが、薩摩藩は九州の南端で幕府の目が届かないことをいいことに盛んに密貿易を行っていたのである。
密貿易に必要となるのが優秀な商人で、薩摩藩は商才のある人物を求めていた。そこに応募してきたのが庄内生まれの商人・岩元源衛門だった。

岩元源衛門は、鹿児島城下に「山形屋」というお店を構え、全国津々浦々に薩摩の商品を販売し、朝鮮半島にまで販路を拡大した。
そのおかげで薩摩藩は莫大な利益を生み、その利益がその後の繁栄につながり、西郷が仕えた島津斉彬が藩主の頃には傑出して豊かな藩となっていたのだ。

薩摩藩の繁栄は庄内出身の岩元源衛門なくしてはありえなかった。そのことを西郷はよく知っていたのだ。

会津藩に対する新政府の厳しい処遇に戦々恐々だった庄内藩だったが、その話し合いが行われた際に西郷の「庄内藩を潰すくらいなら、おいどんを殺してくれ!」という一言で、庄内藩は他の奥羽越列藩同盟とは違う処遇となった。

庄内藩は17万石から12万石に減じられただけだった。

それとは他に、庄内藩には幕末に武器弾薬を供給していた酒田の豪商・本間家があった。
庄内藩は前述の通り、領民と藩とのつながりが深く、処遇が下される前に酒田の本間家を中心に藩の上士・商人・地主らが、明治新政府に戦後賠償金として30万両を献金していたのである。

藩主であった酒井忠篤は切腹を覚悟していたが罪を許された。その後、会津や平と転封を繰り返したが、戦後賠償金や領民の嘆願によって明治3年に庄内に復帰したのである。

新政府の中には「庄内藩に厳罰を下すべきだ」「また反乱を起こすのでは?」と警戒する声も多かった。
しかし西郷は「武士が兜を脱いで降伏したのだから、後のことは何も心配しなくてよい」と自分の命を賭けて政府首脳陣を説得したのである。

こうして故郷の庄内にいることを許された庄内藩士(兵士)たちは新たな取り組みを始めた。庄内藩で要職を務めていた菅実秀(すげさねひで)が、元藩士およそ3,000人を束ねて松ヶ丘地区の開墾にあたったのである。

画像 : 菅実秀

この地で養蚕事業を起こし、明治日本の最大の輸出品である「生糸」の生産拠点を目指したのである。

彼らには、新時代の国づくりに協力して賊軍の汚名を晴らそうとする思いがあった。
開墾から3年後の明治8年に初めての生糸が出荷され、その後、養蚕事業は軌道に乗ったのである。

そのため、松ヶ丘地区の家々には今も西郷隆盛の肖像画が飾ってあるのだ。

おわりに

幕臣として徳川家に仕えた者、徳川の血を引く初代藩主・保科正之を称える会津藩の者、奥羽越列藩同盟で賊軍となった庄内藩の者。

自分たちの意志とは異なり時代の波で「賊軍」と呼ばれた者たちは、刀を農機具に持ち代えて、辛く厳しい道を何とか生き抜いたのである。

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