真珠湾攻撃のために「とんでもなく高度な訓練」が行われていたのをご存知ですか?

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大島 隆之

太平洋戦争の戦端を開くことになった真珠湾攻撃。

じつは、その攻撃は難易度が高く、高度で困難な訓練を要するものだった。

実際に攻撃に参加した、北原收三さんが残した日記から、その実態を浮かび上がらせる。

*本記事は、大島隆之『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

真珠湾攻撃隊の内実

收三さんの日記を読んでいて興味深いのは、「日本海軍の精鋭を集めた」と語られることの多い真珠湾攻撃隊の内実が、もっと複雑だったということだ。もちろん、訓練に訓練を重ね、中国の戦場で実戦を経験した搭乗員が多くを占めていたが、その一方で、練成途上の若年搭乗員も大勢いた。

真珠湾攻撃に参加した隊員たちは、その出身によって大きく四つに分けることができた。エリート士官を養成する「海軍兵学校(海兵)」出身の者、少年飛行兵「予科練」の出身の者(昭和7年に始まった制度で、高等小学校卒業であれば応募できたが、昭和12年に旧制中学3年修了の者を対象とする予科練が新たに作られ、前者が「乙種飛行予科練習生〈乙飛〉」、後者が「甲種飛行予科練習生〈甲飛〉」となった)、そして、志願や徴兵で海軍に入った者のなかから選抜した「操縦練習生〈操練〉」や「偵察練習生〈偵練〉」出身の者である。

そのなかで收三さんよりも後に飛行訓練を始めたのは、海兵、甲飛、乙飛、操練、偵練合わせてわかっているだけで200人以上にのぼる。これは真珠湾攻撃に参加した全搭乗員の四分の一近い数となる。

ベテランと若手をうまく組み合わせながら、技量を向上させ新陳代謝を図るのは組織として当然のことだが、経験の少ない搭乗員にも高度な技量を求めざるを得なかったのが真珠湾攻撃だった。

高度10メートルで魚雷を投下

よく言われていることだが、真珠湾という軍港は水深が浅く、攻撃機から投下した魚雷が海底に突き刺さることなく海中を走るには、高度10メートルほどまで降りて魚雷を投下しなければならなかった。9月末からは、鹿児島の錦江湾などを舞台に、市街地方向から侵入した艦攻が海面すれすれまで降下して魚雷の発射態勢に入る訓練が始まっている。

実際に訓練に参加した雷撃隊の元搭乗員(加賀・前田武さん、蒼龍・吉岡政光さん、飛龍・城武夫さん)によれば、通常の雷撃が100メートルほどの高さから魚雷を投下するのに比べて異常な低さで、そもそも艦攻の高度計の針は50メートルまでしかないため計器もあてにならず、プロペラが海水を叩くギリギリまで機体を下げなければならないとのことで、その困難さが伝わってくる。

收三さんもまたそんな訓練のさなかにいたが、日記の記述を見る限り手ごたえはなく、上官から叱責されることもしばしばだったようだ。

11月4日から大分県の佐伯湾を舞台に6隻の空母が参加して行われた真珠湾攻撃前の最後の雷撃訓練でも、部隊全体の出来は芳しくない。真珠湾攻撃を立案した源田実が戦後に書いた『真珠湾作戦回顧録』にも、「雷撃隊懸命の努力にもかかわらず、思わしい成績をあげることができなかった」とある。投下された魚雷の多くが、海中をうまく走らなかったのである。

「攻撃の日即ち死の日」

1941年の後半、日本は、それまで対立を深めてきたアメリカとの戦争へと向かっていく。10月には東条英機により内閣が組閣され、11月5日には、海軍の作戦立案を司る軍令部総長から山本五十六・連合艦隊司令長官宛に「自存自衛の為」「十二月上旬を期し諸般の作戦準備を完整するに決す」という命令が下り、いよいよ日本は真珠湾攻撃に向けて舵を切ることになる。

九州での訓練を終えた6隻の空母は、極秘裏に行動を開始して北海道択捉島の単冠湾に集合し、11月23日、全搭乗員に対し、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃しアメリカとの戦争に踏みきることが伝えられた。北原收三さんの日記にも、こう記されている。

一一月二三日
今晩隊長より本作戦の攻撃目標を教え(ら)れる。
ハワイの艦隊及び地上施設なり。
俺の骨をうづめるのは太平洋の真中だ。
ハワイ迄行き死ぬのならば例え藻屑となるとも本望だ。
後十数日で自分の生死も判るのだ。
いや帝国の運命も左右されるのではないだろうか。

一一月二四日
来るべき作戦に備えるべく赤城え
攻撃目標なるオハフ島の模型を見に行く。
攻撃の日即ち死の日を数える。
死を恐れる訳では無いが遂考える。
聖賢は如何に考えるかしら。

僕はこの日記を読んで、收三さんが真珠湾攻撃を「みずからの死」という悲壮感とともに受け止めていたことに、はっとさせられる思いだった。真珠湾攻撃が日本側から語られるところの「成功」に終わり、参加した隊員のほとんどが生きて帰ったという結果を知っている現在の僕たちは渦中にあった隊員たちの思いに鈍感になりがちだが、彼らにとっては、アメリカという大国と戦火を交える12月8日は自分の命日と受け止めるのが自然だったのだ。

ほかの隊員たちは、真珠湾攻撃やそこで死ぬ可能性があることについてどう考えていたのだろうか?【後編】の「「体の血がサーっと…」、真珠湾攻撃の「唯一の生き残り」が語った「攻撃直前、死への覚悟」」では、別の人物の証言をご紹介する。

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