薩摩藩が明治維新を成し遂げられた理由とは?鹿児島の地理的特性と琉球の存在

左から、島津斉彬、島津久光

(町田 明広:歴史学者)

薩摩藩という特殊な存在

 令和5年(2023)は、幕末維新史の中でも未来攘夷と即時攘夷の両派が激突した、まさに最も疾風怒濤の時代と言える文久3年(1863)から、ちょうど160年の節目に当たっている。ところで、文久3年に限らず、幕末動乱の時期を代表する藩として、読者の皆さんはどの藩を挙げられるだろうか。長州藩、佐賀藩、土佐藩、彦根藩、越前藩、会津藩、そして薩摩藩など、おそらく枚挙にいとまがなく、一つに絞りきることは難しいのではないかと察している。

 その中でも、やはり薩摩藩の存在は際だったものであろう。薩摩藩は常に幕末維新史の中心に居続けており、最後には幕府を倒す最も重要な役割を果たしている。ではなぜ、250以上もあった藩の中で、薩摩藩はそうした存在に成り得たのだろうか。実は、改めて問われると、意外と答えにくいテーマではなかろうか。

 今回は、なぜ薩摩藩が明治維新を成し遂げることができたのか、薩摩藩の特殊性に迫ってみたい。その分析視角として、主として地理的な条件、将軍家や近衛家との縁戚関係、御中教育という教育システムを取り上げ、3回にわたって探求してみたい。

島津斉彬・久光兄弟の存在

 多くの志士や明治官僚が生まれ育った薩摩藩は、島津家の領国であり、一般には「島津に暗君なし」と言われる。そもそも、島津家は鎌倉時代から今に至るまで、綿々と続く名家中の名家である。また、特に時代の変革期になると、歴史上に光り輝くような名君を輩出するという幸運に恵まれた。このことが、島津家をここまで長く存続させた秘訣であろう。

 島津家は、守護大名から戦国大名へと巧みに生まれ変わり、また、江戸時代には外様大名の薩摩藩主として存続した。幕末期には、史上最高の名君と言われる島津斉彬、そして斉彬の異母弟で、斉彬逝去後の薩摩藩の実権を握った島津久光という、不世出の巨星が登場した。この事実が、薩摩藩を幕末維新期の主役に押し立てることになったのだ。

 斉彬・久光兄弟は、ともに政治的なバランス感覚に優れ、常に進取の気性に富んだ改革者であった。また、旺盛な知識欲と果断さをあわせ持ち、熟達の政治家としての資質を十分に発揮した。その国際感覚も、当時の日本においては突出した先見性があり、非常に現実的な世界観を有していた。未来攘夷を標榜し、薩摩藩の、ひいては日本の、富国強兵の実現を目指したのだ。

 しかし、彼らの政治力や世界観を形成する要素は、その資質だけに負うことは叶わない。斉彬・久光兄弟を生んだ背景には、何があったのだろうか。まさに薩摩藩の特殊性によるものであったが、それを紐解いていこう。

鹿児島の地理的特性と琉球の存在

首里城(2018年当時) 写真:小早川渉/アフロ

 まずは、薩摩藩が置かれた地理的な要素から見ていこう。鹿児島は江戸や京都から離れた、いわば「辺境」に位置していた。そのため、時の政権に対して比較的自由に振る舞うことが可能であり、自由闊達な雰囲気が醸成された。

 さらに、鹿児島は海に囲まれており、しかも東アジアに向かって開かれていた。つまり、薩摩藩はアジアを媒介として世界に直結している環境を有していたことに他ならない。特に、鉄砲やキリスト教の伝来に象徴されるヨーロッパとの当初の出会いは鹿児島を通じてであった。蘭学を始めとする洋学が、鹿児島で盛んであったことは当然のことである。薩摩藩は、まさに海洋国家であったのだ。

 これに加えて重要なのは、琉球(王国)の存在である。慶長14年(1609)、薩摩藩は後には西郷隆盛などの配流先となる奄美大島に、徳川家康の了解の下、進軍して占領した。さらに、薩摩軍は沖縄本島にも上陸し、圧倒的な軍事力の差を見せつけ、琉球軍を撃退して首里城を開城させたのだ。

 薩摩藩は、奄美諸島を琉球から奪っただけでなく、王府を通じて琉球全域を間接的に支配することになった。これ以降、琉球王国は薩摩藩の朝貢国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられた。奄美諸島の植民地支配、沖縄本島の実効支配という特異性は、藩主を始めとして藩士レベルまで、政治的センスを研ぎ澄ませ、国際的感覚を豊かにする土壌となったのだ。

琉球実効支配の意義とは

 ところで、琉球は中華帝国(当時は清)を宗主国とする冊封体制に留まると同時に、薩摩藩による冊封も事実上は受け入れるという、二重の従属関係、つまり両属を維持することになった。薩摩藩が両属を黙認したのは、琉球を通じて明・清との朝貢貿易による利益を享受するためであり、幕府もその恩恵にあずかるために、薩摩藩が琉球を両属とすることを容認したのだ。

 琉球の実効支配は、経済的なプラスのみではなかった。薩摩藩は海洋国家ではありながら、江戸時代に入ってからは「鎖国」体制の下で、外国の情報を直接手に入れることはできなかった。

 しかし、琉球の存在を通して、今まで通りに世界の趨勢を知り、文物を手にすることができた。琉球なくして、斉彬・久光兄弟の世界観を形成することは不可能であった。そして、明治維新の主役になることも、当然できなかったと考えざるを得ないのだ。

 次回は、薩摩藩の特殊性を将軍家と近衛家との婚姻関係を中心に追ってみたい。

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