なぜ「日本」は「ヤマト」と呼ばれたのか…「国の名前」をめぐる意外な歴史

日本文化はハイコンテキストで、一見、分かりにくいと見える文脈や表現にこそ真骨頂がある。「わび・さび」「数寄」「まねび」……、この国の「深い魅力」を解読する!
*本記事は松岡 正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の内容を抜粋・再編集したものです。

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国号「日本」の成立

ニホンかニッポンか、どう発音するかはべつとして、「日本」という国号はどこで決まったのかというと、七世紀後半から八世紀あたりです。それまでは「倭」です。自称していたわけではなく、中国の歴史書の『後漢書』倭伝、『魏志』倭人伝、『隋書』倭国伝などが、日本のことを「倭」と、日本人を「倭人」と示したので、それに従っていたのです。「倭の五王」のように中国の皇帝から将軍名をもらっていた時期もありました。

当時の倭国は、朝鮮半島の百済や半島南端の加羅(加耶)諸国と軍事的にも交易的にもアライアンスを結んでいて、独立国家というほどではなかったのだろうと思います。それが百済に軍事的支援を頼まれ、倭国は六六三年の白村江の海戦に臨むのですが、そこで新羅と唐の連合軍に完敗してしまった。これでいよいよ自立の道を選ぶことになったのです。ここから日本が一国として組み立っていくことになります。

斉明天皇から天智天皇にバトンタッチがされた時期でした。このときに「日本」という国名がほぼ決まっていったと思われます。『三国史記』新羅本紀には「六七〇年に倭国が国号を日本に改めた」と記されていた。

ということは、天智天皇の治世が新たな世のスタートであることを示すために、(とくに唐に対して)「天皇」表記と「日本」表記とをほぼ同時に決めたのだろうと思います。律令としてこうした表記が制度化されたのは七〇一年の大宝律令でのことでした。だから制度史的には「日本」という国号は七〇一年に成立したのです。

なぜ日本がヤマトなのか?

こうして日本が「日本」国を名のるのは八世紀前後だったということなのですが、その後の天武天皇以降の時代に『古事記』や『日本書紀』を編纂していくなかで、そこに「日本」という表記が貫かれていたかというと、そうでもありません。記紀神話には日本のことを「葦原中国」とか「豊葦原」とかと記しています。これは国号というより、「水辺に葦が生い繁っている豊かなわれらが国」という意味です。

「秋津島」とか「大日本豊秋津島」というふうに表記されることもある。これは本州のことです。本州・四国・九州・隠岐・壱岐・対馬・淡路島・佐渡をまとめて「大八島」「大八州」(おおやしま)と言っていました。八つの島から成っているという意味です。記紀の「国生み」の場面で生み出された島々です。

そのほか「瑞穂国」という言い方もしている。こちらは稲穂が稔っている様子から付けたもので「お米の国」とみなしたからです。五円玉がその様子をデザインしています。平成一四年、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行が合併したとき、この瑞穂を行名に選んで「みずほ銀行」が誕生した。

倭にはじまって瑞穂国にいたるまで、そうしたいくつかの呼称を示しつつ、だんだん「日本」という表現が確定していくわけです。けれども、その日本はニホンやニッポンとは読まなかった。どう言っていたのか。「やまと」と称んでいたのです。日本と綴ってヤマトと訓読みしていたのです。

私たちはいまでもいろいろな意味で「大和」という言葉をつかいます。大和朝廷、大和政権、大和ごころ、大和魂と言いますし、奈良はずっと「大和の国うるはし」です。そのほか倭媛、大和絵、大和三山、大和人形、大和撫子、大和川、大和郡山、大和煮、戦艦大和、大和文華館、クロネコヤマト、宇宙戦艦ヤマト……などとつかってきた。

大和はいろいろなところに顔を出しています。大和をダイワと読むと大和ハウスや大和書房や大和自動車交通や、大和證券やかつての大和銀行など、もっとたくさんの大和が目白押しになる。

ある時期から、この大和に「日本」という漢字をあてました。日本と綴ってヤマトと読ませた。なぜ日本が大和なのか。もともと日本をヤマトと訓んでいたのでしょうか。

すでに述べたように、ヤマトには古くは「倭」という漢字があてられていたはずです。「倭」という文字は「委ね従う」とか「柔順なさま」という意味をもつ漢字で、中国人が古代日本人の様子や姿恰好や行動からあてがった暫定的な当て字ですが、渋々というより、まだ漢字の意味を十全に理解していなかったわが祖先たちは、自国を「倭」と称します。のちに学識豊かな公家の一条兼良がこの説を採っています。一説には、日本人が自分たちのことを「わ」(吾・我)と言っていたからだともいいます。この説は平安時代の『弘仁私記』に書いてある。また江戸の儒学者の木下順庵は「小柄な人々」(矮人)だったので、倭人になったという説を書いています。

ところが、この「倭」を日本側(朝廷)は「ヤマト」と読むことにした。八世紀の天平年間のころには「和」の文字が定着し、そのうち日本国のことを「大和」「日本」「大倭」などと綴るようになったのです。

どうしてヤマトという呼称が広まったかといえば、初期の王権の本拠が奈良盆地の大和の地にあったからで、やがてそれが畿内一帯に広がり、さらには日本国の呼称を代行するようになったからだと思われます。ヤマトを地理的に一番狭くとれば、大和は三輪山周辺のことをさします。

語源的にいえば、もともとヤマトは「山の門」です。奈良盆地から大阪側を見ると連綿と続く笠置山・二上山・葛城山・金剛山と続く山々を眺めていた大和人たちが、自分たちの土地を「山の門」と言いあらわしたのでしょう。ここに大和政権が誕生し、飛鳥・藤原・奈良時代がくりひろげられた。それで国の名をヤマトにした。そういう経緯だったのだと思います。奈良時代の次は平安時代ですが、そこは今度は山城国と称ばれました。ヤマシロとは「山の背」(やまのせ・やまのしろ)のことです。平安京からすると、あの奈良の山々が背になったのです。山城国は山背国であったわけです。

こうして奈良の朝廷が大和朝廷になり、その大和朝廷が律する国が「日本」になったわけでした。

さらに連載記事<じつは日本には、「何度も黒船が来た」といえる「納得のワケ」>では、「稲・鉄・漢字」という黒船が日本に与えた影響について詳しく語ります。

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