「集団就職」「就職列車」とは何だったのか? 地方の“口減らし”とその実態、昭和ノスタルジーに浸る令和時代に問い直す

かつて都会を目指す若者たちを運ぶために設定された就職列車。今では姿を消したが、一体どのようなものだったのか。集団就職とともに振り返る。

姿を消した就職列車

東京方面に就職するため集団就職列車で東京駅に着いた鹿児島県、熊本県の中卒者。東京・千代田区の国鉄東京駅。1967年3月19日撮影(画像:時事)東京方面に就職するため集団就職列車で東京駅に着いた鹿児島県、熊本県の中卒者。東京・千代田区の国鉄東京駅。1967年3月19日撮影(画像:時事)

 今はその面影が薄れているが、上野駅は都会を目指す若者たちが最初に降り立つ駅である。

 かつて、井沢八郎が歌ったヒット曲『あゝ上野駅』(1964年)では「上野は俺らの心の駅だ」と歌われている。

 そんな昔を思い出すときに必ず話題となるのが、就職列車だ。都会を目指す若者たちを運ぶために設定された臨時列車である。

 今では姿を消した就職列車、そして集団就職とはどんなものだったのか。

初の集団就職は1935年

上野駅(画像:写真AC)上野駅(画像:写真AC)

 就職列車とは、かつて盛んに行われた集団就職で都会に出る若者たちを運んだ列車である。

 そんな集団就職の最初の事例となったのは、1935(昭和10)年3月に凶作に見舞われた東北地方の救済策として秋田県で実施されたものとされている。その後の1939年4月、秋田発上野行きの「専用臨時就職列車」が運行されるに至った。

 このときに確立された集団就職の形態は、戦後間もない時期にもほとんど変わらず継続している。戦後の復興期にあって、地方は働こうにも仕事はなく、食うにも事欠く人たちにあふれていたからだ。他方、早期に復興した地域では労働力が求められていたのである。

 記録に残っているなかでは、1947年2月に秋田県から群馬県への集団就職する若い女性たちを引率したというものがある。これは、一般の列車を利用して引率していた。その後、1951年3月29日に戦後最初の集団就職列車、長野発名古屋・三重・京都・大阪方面行きの就職列車「織女星号」が運行されている。

集団という形態が採られたワケ

東京駅(画像:写真AC)東京駅(画像:写真AC)

 では、なぜこのような形態が採られたのだろうか。そこには、就職する若者たちを保護する目的があった。

 戦前、戦後ともに言葉巧みに就職先をあっせんするとして、劣悪な環境での低賃金労働に送り込む悪徳な求人が横行していた。そこで、行政が介入して安心できる就職先を確保するとともに、雇用者側も安心できる方法として集団就職の形態が確立していった。なにより、送り出し側としては、

「効率よく余剰人口を排出したい」

という意図もあった。

 こうして、集団就職は高度成長期になると最盛期を迎える。工業化が進んだ地域や都市部では所得も増え、高卒者以上が当たり前になっていた。結果、町工場や個人商店では十分に人手を確保できない状況が生まれることとなった。

 他方、地方では依然として貧乏で子だくさんという状況が続いていた。既に戦後復興も一段落した1959(昭和34)年の雑誌記事には、集団就職で都会に向かった青森県の少年について次のような記述がある。

「62歳の父親は公衆浴場のカマ炊き、三人の兄たちは印刷工、日雇人夫、材木店手伝い、二人の姉はパン工場の女工と、うどん屋の女店員、S君の下には4歳と当歳の妹がいる文字通り貧乏人の子だくさんという一家です」(『週刊読売』1959年4月26日号)

 集団就職で都会に出ることは経済的に自立する方法であり、口減らしの意味もあった。都会にあっては、貧しい地方で暮らす若者であれば

「文句もいわずに働く」

という期待もあり、求人は絶えることがなかった。

“春の風物詩”になった就職列車

奄美の島(画像:写真AC)奄美の島(画像:写真AC)

 こうして1950年代後半には、全国各地で行政の手配で専用臨時就職列車が運行されるようになる。その数が増加したことで、管理は全国規模へと移行していった。

 1962(昭和37)年、当時の労働省職業安定局は日本交通公社に対して、輸送あっせんを依頼したいという申し入れを行っている。これを受けて、日本交通公社は職業安定局、国鉄と協力し、全国的に就職列車の計画輸送を行うこととなった。これが、一般によくイメージされる就職列車の確立である。

 この制度では、就職列車で就職先に移動する若者に対して、学割などと同じ2割引き運賃が適用されることとなった。国鉄が指定した列車、すなわち

「計画輸送」

として設定された列車に乗車すれば割引が適用されたのである。

 こうして“春の風物詩”として走るようになった就職列車だが、『あゝ上野駅』のヒットもあり、若者は皆鉄道で都会へと向かったイメージが濃厚だ。しかし、実際の移動方法はさまざまだった。

 四国や、九州、島しょ部などでは「就職船」も使われていた。愛媛県では松山から大阪まで船便を利用するルートも。また奄美諸島では、東京へ直接向かう船便を使うルートや、鹿児島から鉄道を利用するルートもあった。

集団就職の実態

みそ汁(画像:写真AC)みそ汁(画像:写真AC)

 多くの若者が集団就職で都会を目指したが、うまく行くものばかりではなかった。『週刊明星』1959年4月26日号に掲載された「東京の人はウソつきだ 集団就職に夢破れた少年たち」では、群馬県から就職するもすぐに逃げ帰った少年を取材している。その就職先の環境は、このようなものだった。

「おかずは、朝はミソシルと菜っぱの塩づけ。同じ菜っぱがミソシルの中にも浮かんでいる。昼はカブの塩づけとつくだ煮。夕方はつけものだけということが多く、小山君らがいた二週間のあいだに魚がついたのは三回きりだ。それに、農家の出が多い少年たちにとっては、ドンブリにもられた外米のニオイがとくにこたえた。(中略)時間外手当がつかない。(中略)こまるのは180名の従業員に対して、便所がひとつしかないことだ。(中略)5500円の月給から食費(2500円)、積立金(1000円)、作業服代、風呂代をさっぴかれると1000円ぐらいしか残らない」

 今考えるととんでもない労働環境だが、会社は取材に訪れた記者に対して堂々と

「中小企業では、労働基準法といっても、その通りやっていたのでは経営がなりたたない」
「それほど過酷な労働をさせているわけではないし、まったく理由がわからない」

と発言している。

 この記事では、送り出した学校の教師にも取材を行っているが、教師も若者の辛抱の足らなさを嘆いたり、受け入れ先をひとごとのように批判したりすることに終始している。これは、集団就職の実態が、経済発展の恩恵が遅れている地方の口減らしであり、就職列車がその効率的な手段であったことを示している。

 いかに昭和という時代が美化されようとも、就職列車が

「高度成長期の犠牲」

となった無数の人たちを運んだ手段であるという事実は消えないのである。

「集団就職」「就職列車」とは何だったのか? 地方の“口減らし”とその実態、昭和ノスタルジーに浸る令和時代に問い直す

鹿児島県・青森県からの東京・愛知・大阪 3 都府県への新規中卒就職者数(画像:労働省職業安定局雇用政策課(1979)『史料:戦後の労働市場(第 3 巻)』『鹿児島県職業安定行政史』『東奥年鑑』各年分など)

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