新名一仁(戦国史研究者)
島津氏に関する研究は、日々進展している。「島津義久は朝鮮出兵の際、明との提携を図っていたのか」「義弘は、島津家第17代当主になっていたのか」など、注目すべきトピックスを紹介していこう。
新名一仁 戦国史研究者
昭和46年(1971)、宮崎県生まれ。鹿児島大学法文学部人文学科卒業。広島大学大学院文学研究科博士課程前期修了。広島大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。博士(文学、東北大学)。著書に『「不屈の両殿」島津義久・義弘』『島津四兄弟の九州統一戦』などがある。
※本稿は、『歴史街道』2022年10月号から一部抜粋・編集したものです。
義久は明と連携しようとした?
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、島津義久がひそかに明と連携し、秀吉を倒そうとしていたとの指摘がある。鹿児島の尚古集成館の館長・松尾千歳氏によるもので、注目されている。
明から渡ってきて、義久の主治医となった許儀後が、福建省の明軍と連携し、豊臣政権打倒を島津家に持ちかける工作を行なったというのだ。
今後、これに関する研究は進んでいくだろうが、義久が秀吉の朝鮮出兵をかなり冷静に判断して、失敗すると見ていたのは確かだろう。
島津領内には、海商として渡来した者や、倭寇に連れてこられた者など、多数の帰化明人がいた。義久は彼らを頭脳集団として活用し、そのリーダー格が許儀後であった。
さらにいうと、琉球人やポルトガル人も、鹿児島に来ていた。義久は彼らから情報を得ることで、当時のリアルな国際感覚を身につけており、明を倒すことなど不可能と認識していたはずだ。
義久と義弘の関係性とは?
長男・義久と次男・義弘の関係、特に島津氏が豊臣政権に降ってから、琉球侵攻あたりにかけての関係についての研究も進んでいる。
一般的には、この頃の島津氏は、義久の家臣団と義弘の家臣団の対立が続いたまま、反豊臣派(義久)と親豊臣派(義弘)に別れて関ケ原合戦を迎えたと理解されてきた。
しかし現在では研究が進み、全家臣団を掌握していたのはあくまで義久で、義弘が「豊臣政権に忠義を」と主張しても、島津家中は従わない状態であったことが明らかになりつつある。
義弘は当主になっていたのか?
島津義弘が兄・義久の没後に、島津家の第17代当主になっていたのかどうか。これは、古くて新しいテーマである。
義弘は家督を継がず、義久から義弘の三男・忠恒 (のち家久に改名)に直接家督が譲られたというのが、多くの研究者の見解である。当時の史料から見ても、家督の証としての「御重物」は、義久から直接、忠恒にわたっている。
義久には男子がなかったため、忠恒が家督を継ぐことになった。それが可能となった要因として、義久の三女・亀寿が、忠恒の正室であったことが指摘されている。要するに、正式な家督を義久から譲られたのは、実は娘の亀寿で、忠恒は娘婿として島津家を継ぐ正統性を得たとも考えられるのだ。
他家の例でいえば、戸次 (立花)道雪の娘・誾千代が父から家督を譲られ、のちに婿の立花宗茂が家督継承したのが有名である。家督を継いだ忠恒であったが、今度は亀寿との間に男子ができなかった。
そこで亀寿は、自身の姉の孫(義久の曽孫)を夫の側室として推挙した。そして、この女性が忠恒の長男で二代藩主となる光久を産み、島津本宗家の家督に義久の血を残すことになる。
しかしながら、義久の系譜を強調しすぎると、義弘の子である忠恒の立場が悪くなる。そこで島津氏の家譜では、あくまで義弘が一度家督を継いだことにしたと推察される。このときの島津氏の相続の複雑さは、武家にとっての「家督とは何か」について、深く考えさせられる問題といえよう。
コメント