「薩摩武者を率いた四兄弟」の命知らずな三男が…豊臣秀吉を激怒させ、首を狙われた末に用いた「最期の策」とは

 戦国小説集『化かしもの 戦国謀将奇譚』の著者・簑輪諒が、小説の舞台裏を戦国コラムで案内する連載の第6回です。(全7回の6回目/前回を読む)

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 薩摩(鹿児島県西部)の島津(しまづ)氏は、戦国大名の中でも最強の一角として、しばしば名が挙げられる。勇猛で命知らずな薩摩武者たち――世にいう薩摩隼人を率いた島津氏は、伊東氏、大友氏、龍造寺氏といった有力大名たちを次々と破り、九州を席巻した。

 その戦国時代の島津氏を主導したのが、高名な「島津四兄弟」である。

 大国の主たる器量を備えた長男・義久、
 鬼の如き剛勇で鳴らした次男・義弘、
 精妙な軍略を誇る四男・家久、

 といった具合に、彼らはいずれも、第一級の将才を備えた武将であった。

 今回、取り扱うのは、そんな島津四兄弟の三男・歳久(としひさ)である。

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勇猛なる若武者

 ――始終の利害を察するの智計並びなく

 四兄弟の祖父であり、島津氏中興の祖といわれた島津日新斎は、歳久についてそのように評した。意味合いとしては、

「戦局の始まりから終わりまでを見通す視野を持ち、常に敵味方の利害を推し測りながら策を巡らせる。その智略に、並ぶ者はいない」

 といったところだろうか。

「大器の長男」義久、「剛勇の次男」義弘、「軍略の四男」家久……さしずめ歳久は「智計の三男」とでも呼ぶべきだろう。

 しかしながら、若き日の歳久は、必ずしも祖父の評通りの男ではなかった。

 彼の初陣は天文23年(1554)、18歳のときだ。歳久は22歳の長兄・義久、20歳の次兄・義弘と鞍を並べ、大隅(鹿児島県東部)の岩剣城を攻略した(末弟の家久は、このときまだ8歳)。

 以後、彼は島津軍の一員として、近隣勢力との戦いに身を投じていくのだが、その戦ぶりは智将というより猛将と呼ぶ方が相応しく、当主一門であるにも関わらず敵陣深くまで斬り込み、たびたび負傷しながらも功を挙げた。ある戦では、左腿に矢が貫通するという重傷を負ったが、「全く痛くはありませぬ。当たりどころが良かったのでしょう」などとうそぶいたという。

 こうした弟の命知らずぶりに、兄の義久は気が気ではなかったであろう。負傷のため後方に下げられた歳久に「いまは精いっぱい養生することが肝要ぞ」などと綴(つづ)った見舞状が伝わっている。

躍進の影で

 天正5年(1577)、薩摩・大隅・日向(宮崎県)の三州統一を果たし、南九州の覇者となった島津氏は、その後も怒涛のような勢いで版図を拡大していく。

 その一方で、これ以降、歳久の前線での活動は、徐々に見られなくなっていく。

 後年、彼は風疾(中風、リウマチなどの総称)を発病し、手足が麻痺して歩行困難となるのだが、あるいはそうした病の初期症状が、すでにこの時期から始まっていたのではないか。白刃の前に身を晒し、寸分も油断が許されない戦場にあって、たとえわずかな痺れや稀(まれ)な発作であっても、武将としては命取りに近い。

 もちろん、これはあくまで推測であり、歳久が前線から遠のいていったのは別の理由かもしれない。ただ、どんな事情にせよ、勇猛さを誇り、死をも恐れぬ戦ぶりを示してきた歳久にとって、戦場から離れざるを得ない悔しさは、耐えがたいものがあっただろう。

 しかし、彼が「智計の三男」としての才覚を発揮し始めたのは、恐らくこの時期からのことなのだろう。以降、彼は日向に本拠を置いた義弘や家久と異なり、薩摩・大隅国境の祁答院(けどういん)を本拠とし、後方で長兄・義久を支え、重要な評定の場には必ず列席した。

 武将としては有能だが独断専行の多い家久、前線諸将の代弁者として、兄と意見対立することもあった義弘らに比べ、補佐役に徹した歳久は、義久にとって心から信頼できる、数少ない相手だったのではないか。

 島津家の歳久系譜には、義久から歳久宛ての書状が多く収録されており、二人の親交をうかがわせる。

歳久処刑令

 一時は九州を併呑するほどの勢いを見せた島津氏だったが、豊臣秀吉の九州征伐により、天正15年(1587)、降伏する。義久は剃髪して臣従の意を示し、薩摩・大隅2ヶ国と日向の一部を安堵された。

 歳久もまた、剃髪して恭順の意を示し、「晴蓑(せいさ)」と法号を名乗った。晴れの日の蓑(雨具)とは奇妙な名乗りだが、この時期、病によって歩行困難になっていた自分自身に対し、「無用のもの、役に立たぬもの」というような、自嘲の意味を込めたものだろうか。

 その後、天下統一を果たした秀吉は、天正20年(1592)、朝鮮への出兵を敢行。しかしその最中、島津家臣・梅北氏が挙兵し、九州の豊臣大名の領地に侵攻するという事件を起こす(梅北一揆)。

 この反乱はすぐに鎮圧されたが、挙兵に歳久家臣が参加していたことが発覚し、秀吉は激怒した。

 もともと歳久は、豊臣政権の心証が悪かった。

 義久、義弘が自ら出頭して臣従の意を示したのに対し、病床にあった歳久は降伏の際も、使者を送るだけだった(四男・家久は降伏の意を伝えるも、秀吉に拝謁する前に病没)。また、九州征伐後、秀吉が歳久領を通過した際、何者かから矢を射かけられたことがあり、秀吉はこれを歳久が嗾(けしか)けたものと見なしていた。

 その他様々な理由から、歳久は世間から、島津家中における反豊臣の急先鋒として見られていたのだった。

 そして、秀吉は義久に命じた。

「歳久の首を差し出せ」

 秀吉は言う。もともと、歳久は自分に対して数々の曲事を働いた男であり、本来であればそのとき処罰してもよかったが、義久・義弘の降伏に免じて見逃していたのだ、と。

 だからこそ、梅北一揆の件は、秀吉にとって許せることではなかったのだろう。あるいはこの天下人は、家臣ではなく歳久自身が、反乱に関与していたと疑っていたのかもしれない。

 義久は、豊臣政権下で島津を守るため、この非情な命令を受け入れるほかなかった。

最期

 兄の命を受けて、歳久は病を押し、島津氏の本拠・内城に出頭した。

 ところが、なにを思ったか、彼はその夜のうちに、ひそかに城を脱出し、祁答院へと引き返そうとした。しかし、結局は追っ手から逃げきれず、やがて追い詰められて自害した。享年56。

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 己の病のことを思えば、逃れられないことぐらい、この「智計の三男」は十分過ぎるほど理解していただろう。また、領地に戻ったところで、生き延びる術など残されていないことも。

 そもそも、若い頃から命知らずで知られた歳久が、今さら我が身惜しさに逃亡したこと自体が不自然である。

 歳久は、己の行動の結果がどうなるか見越したうえで、あえて逃げたのではないか。

 もし、自分が義久の命に忠実に従い、粛々と切腹するようであれば、梅北一揆の裏に歳久が関与していると考えている秀吉は、さらにその裏に、義久がいるのではないかと疑うかもしれない。あるいは、本心では疑っていなかったとしても、そのような言いがかりをつけて、島津の力を削(そ)ごうとするかもしれない。

 その余地を完全になくす術は、一つしかない。――兄の命令に背いたうえで、討たれる。

 それは、晴天でも雨に備え、あらかじめ蓑を用意するように、先々を見通すことに長けた智将の、最期の策だったのではないだろうか。

歳久が遺した言葉

 歳久の辞世としては、次のようなものが伝わっている。

「晴蓑(歳久)めが 玉のありかを人問(ひとと)はば いざ白雲の末も知られず」(一説に「いざ白雲の上と答えよ」とも)

 意味としては「歳久の魂は、どこにいったのだと人に問われたら、(無念なく死んで成仏したので)あの雲の彼方に消え去ってわからないと答えてください」といったところだろうか。

 やはり歳久は、兄に背くつもりなどなかったのだろう。義久もまた、その思いを理解していたのか、亡き歳久の館跡を訪ねた際、追悼の歌を詠んでいる。

「住馴(すみなれ)し跡の軒端(のきば)を尋(たずね)きて 雫(しずく)ならねど濡(ぬ)るる袖(そで)かな」

 その後、歳久の首は京へ送られ、一条戻橋で晒されたが、義久はひそかに人を使って首を奪還し、京の寺院で丁重に葬っている。

 やがて秀吉が没すると、義久は歳久の最期の地に、心岳寺(平松神社)を建立した。豊臣政権の反逆者として、表立っては控えねばならなかった弟の弔(とむら)いを、義久はようやく果たしたといえる。

 歳久の家督は、孫の常久が継承し、日置(ひおき)島津氏としてその後も続いた。子孫には、幕末期に活躍し、西郷隆盛からも厚い信頼を寄せられた桂久武(かつらひさたけ)などがいる。

参考:島津修久『島津金吾歳久の自害』1982
   桐野作人『さつま人国誌 戦国・近世編』3巻 2017
   新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』2017

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