なぜ薩摩藩は、徳川将軍家や摂関家筆頭の近衛家と濃密な関係を結べたのか?

鹿児島城の御楼門 写真/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

●薩摩藩はなぜ、明治維新を成し遂げられたのか①

薩摩藩の武士階級

 本連載のスタートとなった前回は、薩摩藩の特殊性を地理的な条件から説明をしたが、今回は薩摩藩の姻戚関係を中心に、その特殊性に迫りたい。その前に、そもそも、薩摩藩における武士階級について触れておきたい。

 薩摩藩の大きな特殊性として、武士階級の人口が他藩と比べて、けた違いに多かったことが挙げられる。その割合は、なんと25パーセントにも上り、この数字は全国平均の5~6パーセントを遥かに上回っていた。これほど多くの武士を、すべて鹿児島城下に居住させるのは非現実的であり、鹿児島城下に住む鹿児島衆中(城下士)と、領内の110余りの外城(郷)という行政区画に住む外城衆中(郷士)に藩士を二分したのだ。

 当初は、城下士と郷士間に身分差は存在しなかったが、時代が下るにつれて城下士が格上となり、郷士を蔑視するようになった。城下士はさらに身分制が厳格化していき、一門、一所持・一所持格、寄合・寄合並、無格、小番、新番、御小姓与、与力、そして士分格の足軽に分化したのだ。

西郷家のレベルと悲惨な農民身分

 薩摩藩の武士階級をある程度正確に理解していないと、大きな間違いを生んでしまうことになる。例えば、城下士であった西郷隆盛の家格は、下から2番目の御小姓与であった。これだけで判断すれば、西郷は下級武士と言っても一見間違いではなさそうである。しかし、西郷は薩摩武士全体で見れば、身分としては真ん中くらいであろうか。

 一方で、様々な書籍やテレビ番組では、西郷は下級武士の出身にもかかわらず、そこから出世して大活躍をしたと紹介されることが多い。しかし、それは正しくない。さすがの西郷であったとしても、本当に下級武士であったならば、そこまでの活躍はおぼつかないと考えた方が良さそうである。

 ところで、財政難の薩摩藩にあって、知行通りにサラリーが支給されていたわけでもなく、武士層の困窮は日に日に増しており、武士であっても田畑を耕すのは当たり前であった。そして、これだけの武士家族を支える農民層の困窮悲惨さは、言語を絶するものであった。

 他藩のような村方三役(庄屋・年寄・百姓代)といった自治組織は存在せず、郷士が直接支配していた。年貢の取り立ては苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を極めており、他領に逃げ出す農民も少なくなかった。一方で、農民一揆はほぼ記録されておらず、そもそも一揆を起こす余力もないほど、搾りとられていたのだ。薩摩藩の国事周旋は、農民の犠牲の上に行われていた事実は記憶に止めておきたい。

将軍の御台所となった僥倖

 薩摩藩と時の権力者との結びつき、つまり、徳川将軍家および摂関家筆頭近衛家との濃密な姻戚関係は、他大名を遥かに凌ぐものであった。この事実は、島津斉彬・久光兄弟を幕末政治史の主役に仕立て上げる大きな要素となったのだ。

 まずは、将軍家との関係について見ていこう。享保14年(1729)、5代藩主の島津継豊が8代将軍の徳川吉宗の養女竹姫を継室として迎えたことが大きな転機となる。その竹姫の縁で、斉彬・久光の曽祖父にあたる8代藩主島津重豪の娘、茂姫(広大院)が11代将軍家斉の御台所になるという、またとない幸運を得たのだ。そのため、重豪は将軍の義父として「高輪下馬将軍」と称されるなど、大きな権勢を振るうことができた。

島津重豪像

 そして幕末に至り、斉彬の養女・篤姫(天璋院)が安政3年(1856)に13代将軍家定に輿入れした。その発端は、嘉永3年(1850)秋ころに、幕府から縁談を申し込まれたことである。家斉と茂姫が長命であり、多くの子女に恵まれたことにあやかりたいという、家定本人の強い意向があったのだ。

篤姫(天璋院)

 斉彬が自ら将軍継嗣問題を有利に運ぼうと考え、篤姫をその密使として送り込んだというのが通説であろう。しかし、斉彬がいくら名君といえども、当時の幕府の権威の前では、このようなことに口をはさめる余地などなかったのだ。今で言うところの「都市伝説」の類いである。もちろん、結果として、斉彬はその事実を利用することになったのだが。

 そもそも、江戸幕府創成期を除き、三代将軍家光以降は、将軍家は皇族ないし摂関家から御台所を迎えた。大名からの輿入れは2例で、いずれも外様大名の薩摩藩・島津家からであった。そのため、薩摩藩の勢威・家格は著しく高まったのは、当然の帰結であろう。

 ちなみに、2人の薩摩藩出身の御台所は、摂関家筆頭である近衛家の養女という資格によって、その地位を得ることができた。いかに薩摩藩が名家の大大名であっても、さすがに、臣下の大名の姫としての輿入れははばかられたのだ。

近衛家との濃密な関係

 次に、この近衛家との関係については、島津家の祖である忠久までさかのぼる。文治2年(1186)、忠久は島津庄総地頭職に就いてから島津姓を名乗ったが、本姓は惟宗であり、鎌倉幕府と朝廷を結ぶ重要な役割を果たす近衛家の家司であった。忠久以降、江戸時代の初代藩主の家久が源姓を名乗り始めるまで、島津氏は近衛家の門流として藤原姓を称していた。

伝島津忠久画像

 幕末期に至ると、第10代藩主斉興の娘郁姫(実際は第9代斉宣娘)が文政8年(1825)に、後に関白に就く近衛忠煕に嫁ぎ、忠房を生んでいる。

88歳になった近衛忠煕

 この郁姫は、斉興の側室であり、久光の生母である由羅に養育されたため、久光とも懇意な関係であり、近衛家に嫁いだ後も由羅および久光とは交流があった。なお、久光にとって忠房は、系図上は甥、血縁上は従姉弟にあたる。

 また、斉彬の5男虎寿丸と忠煕娘信姫との婚約が整えられたが、虎寿丸の早世によりこれは実現しなかった。しかし、元治元年(1864)、斉彬養女の貞姫が忠房に嫁いでいる。

近衛忠房

 このような濃密な近衛家・島津家の関係から、茂姫・篤姫はいったん近衛家養女となり、将軍家に輿入れすることが可能となったのだ。文久期(1861~1863)以降、薩摩藩が幕府以上に朝廷工作を得意としたのは、近衛家という、絶対的な存在と強いパイプがあったからに他ならないのだ。

 次回は、薩摩藩の特殊性を、画期的な教育システムである御中教育から追ってみたい。

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