削られ埋め立てられたけど…ポツンとたたずむ「恋島」、昔は恋人たちが人目忍び通った“聖地”だった

恋島の面影を残す一角。干潮時に歩いて渡れたという=南さつま市大浦町の恋島コンクリート工場

 恋島の面影を残す一角。干潮時に歩いて渡れたという=南さつま市大浦町の恋島コンクリート工場

島名が残る「恋島橋」でハートマークを作る大浦支所職員ら。奥は島があった恋島コンクリート工場=南さつま市大浦町

 島名が残る「恋島橋」でハートマークを作る大浦支所職員ら。奥は島があった恋島コンクリート工場=南さつま市大浦町

恋島の現場事務所監督を務めた川崎大洋さん=南さつま市大浦町

 恋島の現場事務所監督を務めた川崎大洋さん=南さつま市大浦町

 鹿児島県南さつま市大浦町の大浦干拓には「恋島」という島名が残る。地元では主に「けしま」と読む。太平洋戦争中から戦後にかけ展開された干拓事業の最重要拠点だったが、今は「恋島(こいじま)コンクリート」の敷地となり島の一部が見られるだけだ。長老に聞くとかつてはその名の通り、恋人たちにとっての“聖地”だったようで驚く。
 大浦町郷土誌によると、周囲348.8メートルの恋島は干拓で5分の4が削られた。貝が多く「貝(ケ)島」から転じたとの話も聞くが由来は郷土誌にもない。
 「藩政時代から恋人たちが人目を忍び通ったデート場所。だから恋島」と証言するのは地元の川崎大洋さん(97)。戦後、旧農林省に入省、恋島の現場事務所監督を務めた。干拓発起人の唐仁原等旧笠沙町長から約75年前に聞いたという。
 話によると、士族男性と農家の女性が恋に落ちたが家柄の問題で結婚できない。2人が貝とりを名目にこの島で逢瀬(おうせ)を重ねた-。近くの神園敦充さん(79)も先輩たちがデートするのをよく見かけたという。
 干拓事業は1942年に食糧増産のため国が着手。戦後は引き揚げ者の就労対策として再開され51年に入植が始まった。干拓史をまとめた小野正さん(72)によると、作物が育たず入植者は苦難を強いられた。「先人はこの地で家庭を持ち人生を懸けた。恋島は大浦干拓の象徴だが家族愛に満ちた『愛の島』ともいえる」と語った。

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