学徒出陣80年 「死んでも靖国には行かない」特攻で散った慶大生

特攻出撃前の良司さん(左端)=1945年5月11日、鹿児島県・知覧基地で撮影、登志江さん提供

特攻出撃前の良司さん(左端)=1945年5月11日、鹿児島県・知覧基地で撮影、登志江さん提供

 第二次世界大戦末期の1945年5月11日、鹿児島県知覧の陸軍特攻基地から一人の学徒兵が特攻機で飛び立った。上原良司さん。今から80年前の43年、慶応大から学徒出陣した良司さんは米軍が上陸していた沖縄に向かい、戦死した。「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」などと記した遺書が戦没者の遺稿集「きけ わだつみの声」に戦後掲載され、今日まで読み継がれてきた。だが、22歳で亡くなるまでどう育ったのか、死を受け入れるのにどんな葛藤があったのかなど、知られていないことも多い。

 遺書に「満足で一杯」と記しながら、良司さんは当時の大日本帝国での禁句を家族に言い残していた。「この戦争は負ける」と。さらに「上官には絶対服従」が当然の軍隊にあって、自らが信条とする「自由主義」に反する理不尽な指導を堂々と批判した。

Advertisement

海軍に入隊する龍男さん(後列右から2人目)、良司さん(前列右端)ら=1942年9月撮影、登志江さん提供

海軍に入隊する龍男さん(後列右から2人目)、良司さん(前列右端)ら=1942年9月撮影、登志江さん提供

 爆弾を搭載した航空機が搭乗員もろとも敵艦に体当たりする「作戦」を、大日本帝国海軍はフィリピン戦線で始めた。「特別攻撃隊」=「特攻」で、陸軍もこの航空特攻を始めた。「九死に一生」どころか、「十死零生」の「作戦」で多数の若者が命を落とした。

 良司さんはその一人。戦死者は国家によって「英霊」とされ、靖国神社にまつられていた。だが良司さんは、「死んでも靖国には行かないよ。天国にいく」と妹に言い残した。

 特攻隊員は国のため、家族のために犠牲になったとして「英雄」視されることもある。しかし、良司さんの遺族の証言から浮かび上がってくるのは、家族との穏やかな生活を楽しみ、恋に悩む一人の若者の姿だ。【栗原俊雄】

コメント