島津家 歴代最恐の暴君!?外道伝説ばかり語られる武将・島津家久の人生がやはり色々とヤバかった

島津家 歴代最恐の暴君!?外道伝説ばかり語られる武将・島津家久の人生がやはり色々とヤバかった【前編】

鎌倉時代から江戸時代まで700年間に渡って南九州を統治してきた島津家のなかでも、歴代最恐の暴君として名高い「島津忠恒(家久)」はご存知でしょうか。

すぐれた内政手腕で島津家を滅亡の危機から立て直した功労者ですが、騙し討ちや妻への扱いがひどすぎるとして功績よりも悪行について語られることが多い不遇な人物です。

忠恒はのちに家久と名乗っていますが、叔父にも家久がいたことから、しばしば悪い方の家久を略称して「島津悪久」とよばれることもあるのだとか。

今回は、そんな島津忠恒が当主になるまでのエピソードを紹介します。

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島津忠恒(Wikipediaより)

子供の頃からヤンチャ

戦国時代末期、島津忠恒は島津家の3男として誕生。父親は、常人とはかけ離れた強さを誇り、鬼島津の異名を持つ島津義弘です。

2人いた兄のうち長男は幼くして亡くなってしまいますが、次男・久保が優秀だったこともあり、忠恒は後継者として厳しく育てられることもなくのびのびと成長しました。そのためか、蹴鞠や酒、女に溺れて遊び三昧の生活を送っていたといいます。

それに引き換え立派に成長した兄・久保は、島津家の当主・義久(叔父)の娘である亀寿と1589年に結婚。義久には娘しかいなかったこともあり、久保が婿入りをして島津家の後継者に選ばれました。

予想外のおこぼれ

1592年に勃発した戦国史上最大の海戦がキッカケとなり、忠恒の人生は大きく変わりはじめます。ことの発端は、豊臣秀吉率いる朝鮮出兵の1回目「文禄の役」へ出陣したときのことでした。

出陣していた兄・久保が、朝鮮での戦闘中に病死。当主不在となった島津家が混乱状態に陥るなか、豊臣秀吉が島津家の後継者に忠恒を猛プッシュ。事実上の命令によって、忠恒が島津家当主に選ばれたのです。

しかし島津家の当主になるには、前島津家当主・義久の血を継ぐ必要があったため、兄の元嫁である亀寿と結婚。ただ、女遊びが大好きだった忠恒は亀寿と折り合いがつかず夫婦生活は最悪で、子供にも恵まれませんでした。

そのような状況下においても、忠恒が入婿であったため、側室を設けることは許されず、後継者がいない状態となってしまったのです。

覚醒する島津忠恒

生まれたときからぐうたらだった忠恒ですが、1598年の朝鮮出兵2回目である「慶長の役」で、遂に戦場で本領を発揮します。朝鮮軍20万もの軍勢に囲まれたにもかかわらず、島津軍はたった5000の兵で勝利。このとき、忠恒軍だけで1万以上もの敵を葬ったとされています。

大活躍をみせた忠恒でしたが、進軍する先々で蹴鞠を楽しむためのスペース・蹴鞠場を兵士に作らせるなど、身勝手な振る舞いが改善されることはありませんでした。長距離の移動後であっても、構わず兵士に蹴鞠場を作らせるなどしていたため、耐えきれずに逃げ出す兵士もいたといいます。

慶長の役は、1598年9月に豊臣秀吉が亡くなったことで中止。日本に戻ってきた忠恒は正式に島津家当主を引き継ぎ、新たな門出を迎えたのです。

島津家の当主になった忠恒は、数々の功績を残していきました。しか同時に悪名も広めていき、遂には自身の行動がキッカケで島津家存亡の危機を招くことになるのです…

裏切り者は成敗

豊臣秀吉の没後、中止となった慶長の役から日本に戻ってきた島津忠恒は、正式に島津家の当主となりました。当主になってからは、心を入れ替えたかのように蹴鞠や酒、女に溺れる生活から脱却。一方で、自身を裏切るような行動をとった人物に対しては容赦のない報復を行うようになります。

ターゲットととなったのが島津家の筆頭家老・伊集院忠棟です。当時、豊臣家の交渉役を担っていた人物で、島津家の家臣であったにもかかわらず、豊臣秀吉の意向を鵜呑みにするイエスマンでした。さらにこのとき、主君であるはずの忠恒の暗殺や島津家からの独立を企んでいたとの噂もあります。

そんな裏切り者に勘付いていた忠恒は、バックにいた豊臣秀吉が亡くなった直後に伊集院忠棟の斬首を決行。このことがキッカケで、島津家は前代未聞の内乱へと発展していくのです。

荒れ狂う島津家

伊集院忠棟の息子・忠真は父の斬首に激怒し、忠恒に対して自身の居城で挙兵します。忠恒は約3万の兵を率いて鎮圧に乗り出しますが、忠真の居城は12の外城に守られた鉄壁の要塞。城を落とすことはできませんでした。

折り合いがつかなくなった双方は、譲れないプライドをかけて消耗戦へと突入してしまいます。困り果てた忠恒は徳川家康に調停を頼み、「降伏すれば許す」という条件で反乱の鎮圧に成功しました。

応援に駆けつけたのに追い返される島津軍

ようやく内乱が落ち着いた島津家ですが、今度は関ヶ原の戦いに巻き込まれてしまいます。徳川家康の援軍要請を受けて、鬼島津・義弘が1000の軍勢を率いて出陣。鳥居元忠がいる伏見城へと駆け付けました。

しかし、鳥居元忠からは「徳川家康様から援軍の話は聞いていない」と入城を断られてしまいます。入城を断られた理由については未だ原因不明ですが、全滅覚悟で戦っていた鳥居元忠が援軍の無駄死にを避けるためについた方便という説もあるようです。

援軍を断られて途方にくれていた義弘軍は、いつの間にか敵である西軍4万もの軍勢に囲まれてしまいます。詳細は判明していませんが、このとき義弘軍以降は西軍側に付き従うことを決め、忠恒に援軍を要請しました。

しかし、内乱騒動を鎮圧したばかりで、身辺警護を緩めることなどできるはずもありません。また、独断行動をとる義弘に忠恒は激怒し、援軍要請を無視していました。ところが、島津豊久を中心に集まった約1000人の軍勢が、独断で援軍に向かってしまったのです。

父を亡くした豊久にとって、息子のように可愛がってくれた義弘は実父のような存在でした。そんな義弘のピンチに居ても立っても居られなくなってしまったのかもしれません。

2つの奇跡

その後の島津家は、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成)陣営に尽力したものの敗北。このとき敵兵に囲まれて絶体絶命の義弘でしたが、味方を犠牲にして追手を止める「すてがまり」という作戦を用いて、なんとか奇跡の生還を遂げまています。

一方で、島津家の裏切り行為に対して激怒していた徳川家康は、島津全滅計画を企てていました。しかし、大きな戦争が終結したばかりの不安定な状況下で新たな戦争を起こすことは得策ではないと判断。島津家は2度目の奇跡に恵まれたのです。

その後、忠恒は徳川家康を相手に謝罪を繰り返し、許しを得るなど当主としての手腕を発揮します。こうして島津家の存亡は完全に免れたのでした。

今回は島津忠恒のエピソードについて前編・後編に分けて紹介しましたが、まだまだ話題の尽きない人物です。果たして彼は英雄だったのか、暴君だったのか…ぜひ皆様も考察してみてくださいね。

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