西南戦争の裏にあった西郷隆盛「暗殺計画」の内実 当初は挙兵に反対だった西郷の態度が急変した訳

上野公園の西郷隆盛の像

西南戦争をめぐる西郷隆盛と大久保利通の動きに迫ります(写真:PhotoNetwork/PIXTA)

倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。

しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。

大久保利通はどんな人物だったのか。実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第53回は、大久保と西郷が激突した「西南戦争」の背景に迫ります。

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<52回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだが、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り、重用されるようになる。

久光が朝廷の信用を得ることに成功すると、大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫ったが、その前に立ちはだかった徳川慶喜の態度をきっかけに、倒幕の決意を固めていく。
薩長同盟を結ぶなど、武力による倒幕の準備を着々と進める大久保とその盟友の西郷隆盛に対し、慶喜は起死回生の一策「大政奉還」に打って出たが、トップリーダーとしての限界も露呈。意に反して薩摩藩と対峙することになり、戊辰戦争へと発展した。

その後、西郷は江戸城無血開城を実現。大久保は明治新政府の基礎固めに奔走し、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行した。そして大久保は「岩倉使節団」の一員として、人生初の欧米視察に出かけ、その豊かさに衝撃を受けて帰国する。

ところが、大久保が留守の間、政府は大きく変わっていた。帰国した大久保と西郷は朝鮮への使節派遣をめぐって対立し、西郷が下野。同じく下野した江藤新平は「佐賀の乱」の首謀者となった。大久保は現地に赴き、佐賀の乱を鎮圧する。さらに「台湾出兵」でも粘り強い交渉の末、清から賠償金を得て、琉球を併合。「地租改正」などの大改革を進めていく。一方、士族たちは大久保への不満を募らせていた。

私学校の生徒らが陸軍の火薬庫を襲撃

しまった――。1877(明治10)年1月29日、私学校の生徒ら二十数名が、鹿児島の草牟田にある陸軍の火薬庫を襲撃。知らせを聞いた西郷隆盛は、冒頭のようにつぶやいたという。このとき西郷は、大隅半島の最南端に位置する小根占で猟を楽しんでいた。

私学校の生徒らによる銃砲と弾薬の略奪は、2月2日の夜まで続く。西郷が鹿児島に戻ったのは、その翌日の2月3日のことだ。2月5日には、私学校内で西郷を交えた会議が行われている。

もはや賽は投げられたと、私学校内の急進派たちは騒ぎ立てたことだろう。明治政府と一戦を交えるべしと主張。もうすでに行動は起こしてしまっている。あとは西郷の決起を促すほかなかった。

担ぎあげられようとしている西郷はどう考えたか。

元薩摩藩の国父の島津久光が朝廷に提出した報告書によると、西郷は激怒して、暴走した私学校の生徒たちを叱りつけたという。西郷の妻イトも、のちに同様の証言をしている。

「西郷は、挙兵をせかす私学校の幹部たちに大義名分を説いて鎮撫しようとした」

一方の大久保利通は、といえば、「鹿児島で挙兵した」という報告を受けても、西郷が関与しているとは決して信じなかった。周囲がどれだけ警戒しても、大久保だけは「西郷は大丈夫だ」と言い張って聞かなかったのである。

この時点では、「西郷は士族の反乱に加わらない」という大久保の見立ては、正しかったことになる。だが、事態は急変する。

話し合いを重ねた末に態度を変えた西郷

実は、火薬庫の襲撃が行われる前の1月22日ごろにも、西郷は桐野利秋ら急進派から決起を促されていた。

その理由は1月2日の年明け早々に、明治政府が鹿児島の武装解除に着手したことにある。鹿児島県内の武器弾薬庫から銃器や弾薬が次々に運び出されて、政府が手配した汽船に詰め込まれていく。そんな明治政府の挑発に対して、桐野利秋らの急進派は激怒。西郷に「今こそ立ち上がるべし」と迫ったのである。

だが、西郷はそれには応じず、急進派を押さえ込みにかかっている。西郷だけではない。銃隊学校長の篠原国幹や砲隊学校長の村田新八も、挙兵には反対。それに不満を募らせた私学校の生徒たちが、陸軍の火薬庫を襲うという実力行使に出たのだった。そんな経緯を踏まえれば、西郷が急進派の暴走を叱りつけたのも、無理はないだろう。

ところが、その後、話し合いを重ねた末に西郷は態度を変える。決起に同意して、政府に立ち向かうことを決意。こう言って腹をくくっている。

「出兵と決まった以上、自分の身体はみなに預ける」

西郷が急に態度を変えるのは、珍しいことではないが、一転して挙兵に同意したのには、理由がある。

もし、ここで立ち向かわなければ、暴発した私学校の急進派たちだけが処罰されることになる。もはや戦うしかないというムードが、挙兵に反対した西郷ら幹部たちにも伝播したのは間違いない。現に最も穏健派だった篠原でさえもこう言って、考えを変えている。

「速やかに大挙を着手すべし」

ただし、西郷が決起に同意したのは、まったく別の要因もあった。それは明治政府による西郷の「暗殺計画」が現実味を帯びてきたからである。

鹿児島県出身の警視官や書生が次々に帰省

西郷の命を狙う者が鹿児島に潜伏しているらしい――。

そんなうわさがささやかれ始めたのは、明治9(1876)年9月ごろのことである。西郷が小根占までウサギ狩りに出かけたときにも、警護がつくようになった。

不穏な空気のなか、年が明けて明治10(1877)年1月になると、20人ほどの鹿児島県出身の警視官や書生が次々と帰省してきた。墓参りや母親の看病など、帰省の理由はそれぞれだったが、あまりに不自然だ。

私学校の生徒たちからすれば、西郷の暗殺計画がうわさされるなかで、彼らがただ帰省したとは信じられるはずもない。なにしろ、警視庁は大久保内務卿の管轄に入っている。大久保を支える大警視の川路利良が彼らを送り込んできたことは、火を見るより明らかだった。

はたしてその目的は何か。ただの偵察なのか、それとも、本当に西郷暗殺を目論んでいるのか。私学校の関係者は、帰省してきた警視庁二等少警部の中原尚雄にスパイをつけて、動向を見張っていた。

スパイ役に選ばれたのは中原と旧知の仲で、かつ、私学校の生徒ではない谷口登太だ。谷口は、気を許した中原からこんな言葉を引き出している。

「自分は刺し違えてでも西郷を止める」

これを暗殺計画と解釈するのは無理がありそうだが、この話を聞いた私学校の生徒たちは騒然とした。2月3日に中原を捕縛。激しい拷問を加えたうえで、西郷暗殺の企てを自白させている。

大久保利通の挑発と血気盛んな私学校生徒たち

だが、中原たちは本当に西郷暗殺の任務を受けて帰郷したのだろうか。一説には、中原が「視察のために帰国した」としたのを「刺殺のために帰国した」と、私学校の関係者が意図的に曲解して、暗殺計画をでっちあげたともいわれている。決起をはやる急進派の暴走ぶりをみるに、あながちありえない話でもなさそうだ。

一方で、政府側にも策略を感じざるをえない。鹿児島県内の武器庫から銃器や弾薬は持ち出されて、いかにも怪しい警察官たちが大挙してくれば、私学校の生徒たちが黙っていないのは、容易に想像できる。

中原と同じく密偵として鹿児島県に放たれた野村綱にいたっては、突然出頭してこんなことを言ったという。

「私は大久保から西郷の暗殺を命じられて鹿児島に来たが、中原警部も捕まり、逃げられないと思ったので、自首することにした」

大久保は、たとえ鹿児島県で士族たちによる反乱が起きても、西郷は協力しないと読んでいた。そして、すでに政府の常備軍も整備されており、不平士族の鎮圧についても、熊本県や山口県で経験を積んでいる。

独立国のようにふるまう鹿児島県を潰すなら今だと、大久保は機を見て、川路に挑発行為を命じたのだろう。鹿児島士族を立ち上がらせるのに、最も効果的なのが「西郷の暗殺をほのめかすこと」だと考えたのかもしれない。

暗殺計画はあったのか、なかったのか。真相はやぶの中だが、ここで重要なのは、西郷がこの暗殺計画を信じたことにある。大久保は周囲があきれるほど「西郷は反乱に加わらない」と信じていたが、西郷のほうは大久保のことが信用できなかった。

暗殺計画も、大久保ならば「さもありなん」とむしろ、すとんと腑に落ちたのだろう。大久保は自分の目的を果たすためならば、どんな困難があっても、いつでも一つひとつ、順序だてながら、確実に物事を前進させる。

その粘り強さは本連載でもたびたび取り上げてきたが、部下で元姫路藩士の武井守正にかけた、大久保のこんな言葉にも凝縮されている。

「人間は行き詰まっても、行き詰まらぬように心がけていなければ、大事業は成し遂げられるものではない」

すれ違ってしまった西郷と大久保

実行力あふれる大久保は、味方にすれば頼もしいが、敵に回せば恐ろしい。目的を達成するためのプランに「かつての盟友の暗殺」が組み込まれていても、西郷にとっては「それはありえない」と打ち消すことはできなかった。

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もしかしたら、西郷は決起を促されて葛藤するなかで、大久保と最後に会ったときのことを思い出していたかもしれない。

下野することになった西郷は鹿児島に帰郷する日、大久保のもとを訪れて、こう言った。

「あとを頼む」

しかし、大久保は「知るか」と冷たく言い放つのみだった。このときに大久保が西郷に心を込めたメッセージを送っていれば、自身の暗殺計画は、鹿児島県内の過激派を潰すための大久保の策略だと、西郷も考えられたのではないだろうか。熱い思いを持ちながらも、それを語ることが少ないというところが、大久保にはあった。

暗殺されるくらいならば、戦場で仲間と散ったほうが、よほどマシだ。腹をくくった西郷は、自身の暗殺計画について「大久保と川路に尋問する」と宣言。東京に向かうべく、2月24日に西郷軍は鹿児島を出発し、東上を開始した。

(第54回につづく)

【参考文献】
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫彌『大久保利通伝』(マツノ書店)
西郷隆盛『大西郷全集』(大西郷全集刊行会)
日本史籍協会編『島津久光公実紀』(東京大学出版会)
徳川慶喜『昔夢会筆記―徳川慶喜公回想談』(東洋文庫)
渋沢栄一『徳川慶喜公伝全4巻』(東洋文庫)
勝海舟、江藤淳編、松浦玲編『氷川清話』(講談社学術文庫)
佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家(日本史リブレット)』(山川出版社)
毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(中央公論新社)
河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)
瀧井一博『大久保利通: 「知」を結ぶ指導者』 (新潮選書)
勝田政治『大久保利通と東アジア 国家構想と外交戦略』(吉川弘文館)
清沢洌『外政家としての大久保利通』 (中公文庫)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』(ミネルヴァ書房)
渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)
安藤優一郎『島津久光の明治維新 西郷隆盛の“敵”であり続けた男の真実』(イースト・プレス)
佐々木克『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館)
松尾正人『木戸孝允(幕末維新の個性 8)』(吉川弘文館)
瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ)
鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』(朝日新聞社)
大江志乃夫「大久保政権下の殖産興業政策成立の政治過程」(田村貞雄編『形成期の明治国家』吉川弘文館)
入交好脩『岩崎弥太郎』(吉川弘文館)
遠山茂樹『明治維新』 (岩波現代文庫)
井上清『日本の歴史 (20) 明治維新』(中公文庫)
坂野潤治『未完の明治維新』 (ちくま新書)
大内兵衛、土屋喬雄共編『明治前期財政経済史料集成』(明治文献資料刊行会)
大島美津子『明治のむら』(教育社歴史新書)

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