鹿児島蒸溜所巡りその⑤―津貫蒸溜所訪問記―本坊家の華麗なる歴史と2拠点でのウイスキー製造に至るまで

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こんにちは!有限会社エィコーンのカエです!
今回は本坊酒造株式会社マルス津貫蒸溜所にお邪魔してきた模様をお伝えしていきますよ~!

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皆様の中にもどこかでこの写真を、もしくは現物を見たことのある方がいらっしゃるのでは?!

津貫蒸溜所と言えばこの塔!!この中はどうなっているかというと…

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このような巨大な管が…

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この塔はなんと七階建て。
今は一階部分に綺麗に説明用ディスプレイが並べられていますが、
かつて最新鋭の設備を用いて、ここで焼酎が製造されていたのです。
※ウイスキーではありません!!

「マルス」=「ウイスキー」、のイメージを強く持たれている方も多いのではと思われますが、本坊酒造は、かねてより、時代の変化に合わせて様々な産業に携わり成長を遂げてきた、津貫発の一大企業なのです。

津貫発と聞いて驚かれる方もいらっしゃることと思います。これを読まれているウイスキーファンの多くの皆様にとっては、マルスウイスキーといえば、まずは駒ヶ岳の麓に立つ「マルス信州蒸溜所」のイメージが強く、津貫蒸溜所は「最近できた」という印象を持たれている場合が多いのではないでしょうか。実は本坊酒造には明治初期から続く長い歴史があるのです。という訳でその華麗なる道のりを、ざっくりと見ていきましょう!(詳細に記述するととんでもないボリュームになるので、あくまでもざっくりと)

時は1872年。本坊郷右衛門と子の松左衛門が、綿加工、菜種油製造の地場産業を創業したことに始まります。初めはお酒は関係無かったんですね~。江戸時代末期、津貫周辺の地区では、綿や菜種の栽培が奨励されており、本坊家も家業として、米やさつま芋、麦、菜種などを栽培する農家でした。「何か時代に合った仕事を」と、二人で製綿業を開業、次いで搾油技術を習得し、1885年には菜種油製造業を開業。綿花から綿を、菜種から菜種油を、という試みは、農産物をそのまま販売するのではなく、手を加えてから販売するという、本坊家のビジネススタイルの転機となりました。1902年には、現在の津貫蒸溜所がある場所で、物品販売業を開始。松左衛門の長男浅吉(18歳)、次男常吉(16歳)、三男吉次郎(14歳)が経営に参加し、妹たちも商売を手伝いました。日増しに繁盛し、後に「玉の本坊」と呼ばれ、松印本坊商会・本坊兄弟商会として、南薩摩で有数の商会に発展。さつま芋栽培が盛んになると、焼酎製造にも着手します。こうして、現本坊酒造の原型ができたのです。(※津貫蒸溜所のパネルより引用あり)

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本坊家の家系図抜粋。

子宝に恵まれた松左衛門。7人の息子たちには、それぞれに事業発展の方向性を指示しました。そして、彼らの努力と協力の賜物により(割愛御免)、現在の本坊グループ(中核企業は本坊酒造株式会社、株式会社サナス(旧日本澱粉工業株式会社)、薩摩酒造株式会社、株式会社本坊商店、株式会社MCAホールディングス)へと成長を遂げるのです。(※津貫蒸溜所のパネルより引用あり)

今回の鹿児島出張の最後にご紹介する火の神蒸溜所も、薩摩酒造株式会社が所有。つまり本坊グループの組織です。グループ内で知見や技術の共有などもありましたので、そちらの記事も是非お楽しみに!

割愛してしまいましたが、本坊グループの成長を一番に支えたのは焼酎造り。なにせ津貫駅は『焼酎の駅』とまで呼ばれていたのですから。

津貫『駅』⁈そう、津貫蒸溜所の目の前には、かつて鉄道が走り、焼酎造りに必要なさつま芋、燃料の石炭や容器の甕壺が運ばれていました。南薩鉄道といって、1900年代中頃まで大活躍。最盛期には約240名もの従業員を抱えた津貫工場。焼酎の仕込み時期になると活気のある町に様変わりしたようで、南薩鉄道を支える貴重な収入源でもあったようです。冒頭にご紹介した巨大な蒸留設備(スーパーアロスパス式連続蒸留機)が導入されたのもその頃でした。
その後、高度経済成長期に自動車普及のあおりを受け、南薩鉄道の利用者は減少。焼酎の出荷も鉄道貨物からトラック輸送へと移り変わり、津貫駅の貨物取扱は1968年に廃止、南薩鉄道も1980年代中頃に水害等の影響を受け廃線となりました。(※津貫蒸溜所のパネルより引用あり)

南薩鉄道はこのような運命を辿りましたが、本坊家の事業はその間にも拡大を続けていました。焼酎を造り続けながら、ウイスキーやワイン、梅酒等多様な飲料の製造免許を取得し製造を始めます。
ウイスキーに関係するところだけかいつまんでご紹介しますと、、、

1949年、ウイスキーの製造免許を取得、鹿児島工場にて製造を開始。(歴史がありますね!!)
1960年、現マルス山梨ワイナリー、現屋久島伝承蔵(Y.A.が熟成されているところですね!)を新設。また、ウイスキーの製造拠点を鹿児島から山梨に移転。
1985年、現マルス信州蒸溜所を新設し、ウイスキーの製造拠点を信州に移転。(※津貫蒸溜所のパネルより引用あり)

駒ヶ岳でウイスキーが造られるようになるまで、このような歴史があったのですね。

ドラマはここで終わり、ではありません。

1992年、信州工場(現マルス信州蒸溜所)、ウイスキー蒸留を休止。
(※津貫蒸溜所のパネルより引用あり)

そう、ウイスキー冬の時代の到来です。

ウイスキー蒸留は休止したものの、多角経営を行っていた本坊酒造は歩みを止めませんでした。焼酎工場のリニューアル、さつま芋農場の開設など、着々と事業を拡大します。

そして冬の時代の終わりが見えるか見えないか?という2011年に、マルス信州蒸溜所でウイスキー蒸溜を再開。ウイスキー市場が盛り上がっているとはまだまだ言い難い時代に、蒸溜を再開できたのは、本坊家が一丸となって事業を守り、大きくしてきたその成果と言っても過言ではないでしょう。

2016年、遂に、本坊酒造発祥の地・津貫にて、ウイスキー蒸溜所、マルス津貫蒸溜所が新設されます。そしてようやく今に至ります。

本坊家の華麗なる歴史と現在のウイスキー製造に至るまでの道のり、いかがでしたでしょうか。

ここでお腹いっぱいになってしまわれては困ります。何せこれから大本命の津貫蒸溜所見学の模様をご覧に入れますから。ちょっと長くなったので続きは次の記事で!

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