「島原の乱」はなぜ起きたのか? 10代の総大将・天草四郎と、壮絶な闘いの結末まで【親子で歴史を学ぶ】

島原の乱について、日本史の授業で習った記憶がある人も多いでしょう。平和な時代が始まるとされた矢先に起きた、大規模な内乱としても有名です。歴史に名を残すほどの大事件は、なぜ起きたのでしょうか。原因から主な関係者、結末までを詳しく解説します。
<画像:天草キリシタン館のキリシタン墓地>

島原の乱とは

「島原の乱(しまばらのらん)」は、江戸時代の初期に起こった大規模な一揆を指します。まずは発生時期や場所など、基本情報を振り返りましょう。

江戸時代最大といわれる一揆

島原の乱は、1637(寛永14)年に、肥前国(ひぜんのくに、現在の佐賀県および長崎県)の島原と、肥後国(ひごのくに、現在の熊本県)の天草(あまくさ)の農民や浪人が起こした一揆です。近年は「島原・天草の一揆」や「島原・天草の乱」と呼ばれることもあります。

一揆に加わった人数は約3万7,000と大規模で、幕府は約12万人もの兵を動員し、半年かけてようやく鎮圧にこぎつけます。苦戦した幕府は、乱の再発を防ぐため、一揆軍のほとんどを殺害し、関係者を厳しく処罰しました。

なお、島原の乱が起きたのは三代将軍・徳川家光(いえみつ)の治世。徳川家康が「江戸幕府」を開いてからわずか34年後です。以降、幕末まで日本で大きな内乱は起こっていません。

島原の乱の原因は?

島原の乱は、なぜ、これほどまでに大規模な一揆となったのでしょうか。農民たちが蜂起(ほうき)した主な原因を見ていきましょう。

キリシタンへの弾圧

江戸幕府が開かれた頃、島原を治めていたのはキリシタン大名の有馬晴信(ありまはるのぶ)です。天草も、かつてキリシタン大名・小西行長(こにしゆきなが)の統治下にあったことから、多くのキリシタンが暮らす地域でした。

しかし、1614(慶長19)年、有馬氏は日向国(ひゅうがのくに、現在の宮崎県)に転封(てんぽう)となります。代わって領主となった松倉重政(まつくらしげまさ)と、その子・勝家(かついえ)は、キリスト教を禁じる幕府の意向に従い、キリシタンを厳しく弾圧します。

天草の領主・寺沢堅高(てらさわかたたか)も、同じようにキリシタンの弾圧を強化しました。彼らはすさまじい拷問(ごうもん)によって、信者たちに棄教(ききょう)を迫ります。このような迫害を受けたキリシタンの不満が、島原の乱の一因と考えられています。

富岡城(熊本県天草郡)。唐津初代藩主・寺沢広高は小西行長の所領・天草を与えられたが、遠隔地のため富岡城を築き、番代を置いてこの地を治めた。2代藩主が、堅高である。2005(平成17)年石垣や櫓が復元され、本丸は「富岡ビジターセンター」となっている。

重税・飢饉による農民の不満

松倉父子や寺沢堅高は、キリシタンを厳しく取り締まると同時に、農民たちに過酷な税を課しました。特に松倉父子は、自分の居城の建築費や江戸城の工事費を賄(まかな)うために、あらゆるものに課税したといわれています。

さらにこの頃、島原一帯では暴風雨や日照りによる凶作が続き、飢饉(ききん)が発生します。しかし、領主たちは税を軽くしないどころか、未納者の妻子を見せしめとして拷問するなどして、取り立てをエスカレートさせました。

こうしたことが続いて農民の不満は極限まで高まり、ついに村人が代官を殺害する事件が起こります。この事件をきっかけに各地の農民たちが次々と蜂起し、大軍勢となったといわれています。

島原の乱に関わる人物

島原の乱は多くの人の運命を変えました。乱に関係する、特に有名な人物について、簡単に紹介します。

益田(天草)四郎時貞

益田四郎時貞(ますだしろうときさだ)は、「天草四郎(あまくさしろう)」とも呼ばれる一揆軍の総大将です。乱が起こった当時はまだ10代でしたが、農民たちをまとめて勇敢に戦いました。

益田家は、キリシタン大名・小西行長の元家来で、四郎の両親もキリシタンです。四郎は賢いうえに大変美しく、常に自由と平等の思想を説いて圧政に苦しむ人々の希望となっていました。

島原の乱が起こる25年前には、禁教令を受けて天草から追放されることになった神父が、「天童が現れる」と預言したと伝わっています。当時の人々は、四郎を見て「預言が当たった」と考え、総大将と仰いだのかもしれません。

天草四郎銅像(熊本県上天草市)。「藍のあまくさ村」に立つ高さ15mの像で、足元は展望台。四郎の洗礼名はジェロニモだが、乱の頃はフランシスコと変わる。妻帯者説もあるが、果たして?

山田右衛門作

山田右衛門作(やまだえもさく)は、一揆軍の唯一の生き残りとして知られる人物です。職業は南蛮絵師(なんばんえし、洋画家のこと)で、島原の乱で天草四郎が使った旗は彼の作品と考えられています。

右衛門作もキリシタンでしたが、当初は一揆に反対していました。しかし、一揆軍に妻子を人質に取られたため、やむなく従ったと伝わっています。

右衛門作はひそかに幕府軍と連絡を取り、一揆軍の様子を知らせる代わりに、自分と家族の命を救ってもらおうと考えました。ところが、幕府軍とやり取りしていることがバレてしまい、妻子は一揆軍に殺されてしまいます。

島原の乱の終結後、幕府が右衛門作だけを助けたのは、絵の腕前を利用する目的があったためといわれています。実際に、幕府は右衛門作に「絵踏み」用の絵を描かせるなど、キリシタンの摘発に利用しました。

松倉勝家

松倉勝家は前述の通り、島原の領主だった大名です。父・重政と同様に、領内のキリシタンを弾圧したり、重税を課したりして島原の乱の原因をつくりました。

乱の鎮圧後、幕府は一揆の責任が島原・天草の領主にあると疑います。周辺住民の証言や屋敷の調査で、圧政と残虐行為が明らかになった勝家は、国を乱した大罪人として斬首に処されます。

当時の原則として、死罪の大名には、名誉を重んじて「切腹」がいいわたされていました。しかし、勝家には切腹は許されませんでした。

江戸時代を通じて、斬首に処せられた大名はほかになく、大変厳しい処分だったといえます。なお天草の領主・寺沢堅高も責任を問われ、改易(かいえき)処分となっています。

松平信綱

松平信綱(まつだいらのぶつな)は、島原の乱が起こった頃に幕府の老中を務めていた人物です。乱では、戦死した幕府軍総大将の代わりに現地で指揮を執りました。

亡くなった総大将とは、徳川家康の代から仕える重臣・板倉重昌(いたくらしげまさ)です。しかし、重昌は一揆軍の粘りに手を焼き、決着を焦って総攻撃をかけた結果、討ち死にしてしまいました。

総大将を引き継いだ信綱は、兵糧(ひょうろう)攻めをはじめとする優れた知略を用いて一揆軍の勢いを削ぎ、無事鎮圧に成功します。その才能にあふれる様子から、伊豆守であったこととかけて「知恵伊豆(ちえいず)」という異名が付けられました。

島原の乱とは、どんな戦いだったのか

島原の乱は、農民一揆としては規模が大きく、鎮圧後もしばらく混乱が続いたといわれています。戦いの経過や事件の影響について見ていきましょう。

戦いの経過

1637年10月、各地で蜂起した一揆軍は、まず代官所を襲撃し、続いて領主の城を攻撃してまわります。しかし、城を奪うまでには至らず、12月頃に島原半島の先端に建てられていた廃城に集結しました。

この城は「原城(はらじょう)」といい、有馬氏の本拠地だった場所です。籠城(ろうじょう)した一揆軍には女性や子ども、老人も含まれていましたが、天草四郎の下で強く団結していたと伝わっています。

さらに、キリシタン大名の元家臣で浪人となっていた武士が参加していたことも、一揆軍が長く戦い続けられた要因でした。とはいえ、数万人規模の籠城戦が長続きするはずはありません。

1638(寛永15)年の2月末、飢えと疲労で士気の下がった一揆軍に幕府軍が総攻撃をかけ、ついに原城は陥落します。天草四郎は討ち死にし、一揆軍は一部を除いて皆殺しとなりました。

原城址「虎口(こぐち)」(長崎県南島原市)。2000(平成12)年の発掘調査で発見された、国内最大級の虎口である。また2004(平成16)年の調査では、当時のキリスト教施設に使われた「花十字紋瓦」が出土した。三方を海に囲まれた美しい城で、別名「日暮城」。

島原の乱による影響

島原の乱には、島原・天草地域の農民のほとんどが参加していました。彼らが皆殺しになったこともあり、乱の後は田畑が放置されることになります。そこで幕府は、九州の各藩から農民を移住させて島原・天草を復興しようとしました。

しかし、この頃は全国的な大飢饉が発生し、九州諸藩も厳しい状況にありました。このため、島原・天草が完全に復興するまでには、長い時間がかかったといわれています。

また、島原の乱をきっかけに、幕府はキリスト教を持ち込むヨーロッパへの警戒を強め、「鎖国」体制の整備を進めます。1639(寛永16)年にはポルトガル船の来航を全面的に禁止し、1641(寛永18)年には平戸(ひらど)のオランダ商館を、長崎の出島(でじま)に移して監視下に置きました。

現在も残る遺構

一揆軍が立て籠(こも)った原城の遺構は、1938(昭和13)年に国の史跡文化財に指定されており、見学が可能です。城内には一揆からおよそ130年後に、付近の住職が犠牲者の遺骨を集めて建立した「ほねかみ地蔵」がたたずんでいます。

祈りを捧げる姿の天草四郎像や、移築された四郎の墓石も見どころの一つです。女性や老人などが隠れていたとされる空濠(からぼり)や、戦闘員が使った竪穴(たてあな)建物跡なども残っていて、一揆軍の覚悟の大きさを実感できます。

人々の思いがこもった歴史を知る

島原の乱は、領主による行き過ぎたキリスト教徒への迫害と、農民からの搾取(さくしゅ)がきっかけとなって起こりました。信仰の自由がなく、自分や家族が飢えにさらされるなど、現在の日本人にはなかなかイメージできないかもしれません。

乱の経緯や結果をよく理解し、当時の様子を親子で話し合ってみると、歴史への興味がより深まるでしょう。

「島原の乱」当時の将軍についてもチェック

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構成・文/HugKum編集部

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