明治維新後、知られざる「宗教行政史」の謎を解く

『明治維新と神代三陵 廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』窪壮一朗氏インタビュー

足立倫行 (ノンフィクションライター)

『明治維新と神代三陵 廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(法蔵館)

 明治維新は、封建社会から近代国家へと脱皮を図った開明的政治改革。だが反面、大政復古で「諸事、神武創業之始ニ基キ」祭政一致を目指した復古的改革でもあった。

 明治政府はこの矛盾する方針をどう克服しようとしたのか。後に国家神道へ収斂する宗教行政史を、「その土台は薩摩藩(鹿児島県)から始まった」と解明したのが 窪壮一朗さんの『明治維新と神代三陵 廃仏毀釈・薩摩藩・国家神道』(法蔵館)だ。

 著者の窪さんは、鹿児島県南さつま市在住の歴史研究者、本業は農業(柑橘類栽培など)である。

 「執筆動機は、県内の神代三陵を訪れ、なぜ鹿児島県に神話時代の神々の陵墓があるのか、と疑問に感じたことですね?」

 神代三陵とは神武天皇以前のニニギ、ホホデミ、ウガヤキアエズの日向三代の神の陵墓で、現在まで宮内庁が管理している。

 「そうですが、2018年が明治維新150周年で、それに向けて鹿児島県内が官民挙げて盛り上がったことも一因です。公的な事業では取り上げづらい負の歴史を追ってみようと」

 地元から歴史を見直してみたい、と思ったのだ。

田中頼庸と西郷隆盛が企画した島津久光の慰撫

 神代三陵が陵墓に確定したのは1874(明治7)年。窪さんは理由を、その2年前に行幸中の明治天皇が鹿児島の行在所で神代三陵を遙拝したからだ、と推察する。

 「明治天皇が遙拝したことで、神代三陵の存在が既定事実になったわけです」

 天皇の遙拝を建白したのは教部省の田中頼庸(よりつね)。行幸の主導は西郷隆盛。2人とも鹿児島県人で、その目的は島津久光の慰撫だった。

 旧薩摩藩後見役の久光は、尊王倒幕の旗頭であり「維新の功労者」。当然明治政府で要職に就くべきだが、開化政策に断固反対の守旧派なので、鹿児島で孤立していたのだ。

 「死ぬまで髷を切らなかった久光は天皇の洋装にも反対していたとか?」

 「ええ、だから政府の中に居場所がなかった。そんな久光は鹿児島で神道国教化を強力に推進していたので、田中は、神武以前の神々が薩摩にいたことを論証し、鹿児島を「肇国の聖地」とすることで久光を喜ばせようとしたのかもしれません」

 久光は鹿児島県で全国一激しい廃仏毀釈を断行したが、田中はその時の神社奉行。久光の神道国教化政策の右腕的存在だった。

 明治初期の宗教行政史の裏面に、島津久光と田中頼庸の2名がいたのだ。

鹿児島ではなく、伊勢を聖地に

 「でも、“信教の自由”は万国公法なので、明治政府は神道国教化を諦め政教分離へと進みますね、その頃、伊勢神宮の大宮司に転出した田中は、神宮遷座を唱えていたのに急に少宮司浦田長民と神官聖地化に取り組み、伊勢神宮を“国家の宗廟”に押し上げてしまった?」

 「そうなりますね。田中は鹿児島は聖地化できなかったけれど、伊勢を聖地に変えたんです」

 かつての伊勢は、内宮(天照大神)より農業神の外宮(豊受大神)が重んじられる庶民の歓楽地だった。ところが、内宮は最大限格上げされ、妓楼は消え、風格ある施設や国家につながる年中行事も次々新設されて、以前とまるで違う「聖都」へと生まれ変わったのだ。

 鹿児島では1870(明治3)年に皇軍神社が創建され「国に尽くして死ねば神となる」神道が作られたが、伊勢神宮における皇祖・天照大神の宗廟化は、先祖崇拝と皇祖崇拝を結びつける国家神道の土台となった。

 「ただ、田中は変わり身が早いですね? 廃仏毀釈に熱心かと思えば神代三陵に執着し、神道国教化が行き詰まりになると関心の薄かった伊勢神宮の大改革を図ったり?」

 「彼は権力に魅了された人じゃないかと思いますね。新たな権力を得るたびに、権力を利用して社会の仕組みをかえるのが快かったのでは」

 田中は父親の罪により苦難の少年時代を送ったが、学問好きで頭脳明晰。国学者として久光に抜擢され出世の階段を駈け登った。

 「田中頼庸という人は、明治前半にたびたび名前が出てくるんですが、鹿児島でも余り注目されてこなかった。けれど宗教行政史上ではきわめて大きい存在です。この機会に、どなたか田中の本格的な評伝を書いていただけるといいんですが……」

島津久光の実像

 もう一人のキーパーソン、久光はどうか?

 「私、執筆当初は島津久光が嫌いだったんですよ。彼のせいで鹿児島から寺院が一つ残らず消え、極端な復古神道の土地になってしまった、と。けれどある日、そうじゃないと思い直しました。神代三陵にしても、田中などが久光に忖度してやったことで、久光自身は少しも願っていなかった。久光は合理的教養人で、神々の陵墓など信じなかったのではないかと思います」

 久光は若い頃から、異母兄だった薩摩藩主・島津斉彬も一目置くほどの学究肌だった。

 関心の的は「正しい日本の歴史」である。

 幕末のころから水戸藩『大日本史』の再編集や校正に力を注いだが、1876(明治9)年以降は官撰国史『六国史』を継ぐ国史の編纂に独力で取り組み、『通俗国史 正編(全22冊)』『同 続編(全11冊)』などを書き上げた。

 窪さんが注目したのは、そんな久光が晩年、薩摩・大隅・日向の名所旧跡を記した天保時代の『三国名勝図絵』の校正を行ったことだ。

 「その本には、明治の廃仏毀釈で破壊された鹿児島県の寺院のことが詳しく載っているんです。ということは、血気にはやって行った廃仏毀釈を、晩年になって久光は反省していたのではないか、と思うんですね」

 晩年、時代遅れを自嘲するかのように「玩古道人」と号した久光は、急進派ではなく、穏当な保守主義者になっていたのだ。

 「久光の人生を追って行くうちに、次第に好感を抱き始め、書き終えた頃にはすごく好きな人物になっていました」

 歴史の転換期を身をもって体験した久光は1887(明治20)年に71歳で没した。久光の国葬で斎主を務めたのは、当時、伊勢神宮の流れを汲む神宮教管長の田中頼庸だった。

農業をやりながらの在野の歴史研究活動

 それにしても、欧米列強のキリスト教に精神面で対抗するには「万世一系」の皇統しかない、と始まった新神道改革だが、本書を読む限り、行き当たりばったりの連続である。

 皇統の確証たる古代陵墓は神代三陵でも神武天皇陵でも、考古学ではなく口碑流伝に基づいた曖昧な根拠。民間信仰や仏教を排除し皇祖崇拝につながる神道を立ち上げたのはいいものの、教義は一朝一夕には完成せず、結局「宗教を超えてただ拝礼」に行き着く。

 そして第一回帝国議会直前の『教育勅語』発布(1890年)で、「道徳=皇祖皇宗の遺訓」とし、国家神道の枠組みが決まる。

 「農業をやりながらの在野の歴史研究活動、けっこう大変だったのでは?」

 「ほとんど県立図書館に行けなかったり、専門書も手に入れづらかったりと、田舎ならではの不便さはあります。ただ、単調な草取りとか毎日やっていると、その間は頭の中は暇なので、頭の中で執筆ができたという面がありますね」

 東京工大数学科卒で元文部科学省官僚と異色経歴の窪さん、「歴史好きの私には田舎暮らしが合っているようです」と笑顔で言うのだ。

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