本郷和人 なぜ家康は「特Aクラスの戦犯」上杉・島津・毛利を関ヶ原後に取り潰さなかったのか?外様に領地を与え、譜代に領地を与えなかった統治の妙

代表的な「将軍」である徳川家康ですが、実は将軍になる前にも関わらず、ともに戦った大名へ土地の分配を行っていたそうで――。(『三河英勇傳 (徳川家康と徳川四天王)』(芳虎、1873)。古美術もりみや

松本潤さん演じる徳川家康が話題のNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。天下を統一し、幕府のトップとして武士を率いる「将軍」となる家康の歩みが描かれていますが、「将軍とは言え、強力なリーダーシップを発揮した大物ばかりではない」と話すのが歴史研究者で東大史料編纂所教授・本郷和人先生です。なおその家康、実は将軍になる前にも関わらず、関ヶ原でともに戦った大名へ土地の分配を行っていたそうで――。

家康は将軍ではない立場で土地の分配を行った

慶長五(一六〇〇)年、徳川家康率いる東軍と豊臣恩顧の大名からなる西軍が衝突した関ヶ原の戦いに勝利した時点で、家康はすでに天下人という地位をほぼ手中に収めたことになります。

家康が征夷大将軍になるのは、関ヶ原の戦いから三年後の慶長八(一六〇三)年のことです。

けれども一六〇〇年の時点で、将軍という官職を持たないまま、家康は一緒に戦った大名たちに論功行賞として土地の分配を行っています。実態としては、武家の棟梁として振る舞っていたことになります。

つまり、すでに征夷大将軍という官職は名ばかりのもので、中身のない地位にすぎなかったのです。

室町幕府最後の将軍・足利義昭は幕府滅亡後も一五八八年までは征夷大将軍の座にありましたが、全く存在感はありませんでした。義昭が鞆に拠点を置いたことから、鞆幕府を開いたとする研究者もいますが、実態から考えると、何の権限もない名ばかりの征夷大将軍だったことがわかります。

私が提案している「臣が将軍を定める」という定義からしても、鞆の義昭を将軍としてありがたがっている家臣などいませんので、鞆幕府は机上の空論でしょう。

家康の論功行賞は、敵対大名に対する査定が甘かった?

さて、関ヶ原の戦いに勝利した家康にとって、自らが天下人であることをどのように表現するかは、自身の判断に委ねられたことになります。そこで重要になるのが、新しい幕府の勢力圏、加えて、それに基づいて本拠地をどこに置くかという問題です。

『「将軍」の日本史 』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

豊臣恩顧の大名を全てお取り潰しにして、徳川の家臣だけで全国を埋め尽くせるならば、それに越したことはないでしょう。そうすれば徳川家に歯向かう人間もいなくなるわけですが、さすがにそれはできない。

この関ヶ原の合戦後の段階では、それまでは秀吉から土地をもらっていた大名が、家康から所領の分配を受けることで、新たな主従関係を結ぶことになります。それまで「徳川殿」と呼んでいたのが、「徳川様」に変わるわけです。

このとき徳川の政権を打ち立てることへの反発をいかに抑えるかが課題とならざるを得ませんでした。家康の論功行賞は、敵対した大名に対しての査定が思いのほか甘かったのです。

討伐しかけていた上杉家への処断

その一例は上杉家への対応です。会津に本拠を置く上杉景勝に謀反の嫌疑をかけ、家康は軍勢を率いて上杉討伐に向かいました。

『三河英勇傳 (徳川家康と徳川四天王)』(芳虎、1873)。古美術もりみや

小山に差し掛かった時点で石田三成ら西軍の挙兵の報に接し、有名な小山評定(実はなかった、という説もあります)が行われて上杉討伐を中止し、江戸へと引き返しました。このとき、家康に付き従った大名たちがそのまま、関ヶ原の戦いにおける東軍を構成します。

彼らは家康とともに上杉討伐に向かった時点で、自らを家康の差配に従う者として位置づけていたのです。

つまり、上杉家は関ヶ原の戦いの発端となったわけです。ですから「特Aクラスの戦犯」です。上杉景勝を配流、謹慎などに処して、上杉家取り潰しでもおかしくはありませんでした。

ところが関ヶ原の戦いの後、家康はその所領を一二〇万石から三〇万石に削りましたが、景勝を処断せずに上杉家を存続させました。

ダメージを受けたはずの島津家への処断

別の例として挙げたいのは島津家への対応です。当時の島津家は義久と義弘の兄弟が切り盛りしていましたが、当主の義久は「薩摩第一主義」的な人物でした。

そのため、弟の義弘が兄の代理で中央に出てくることになり、その分、豊臣政権や天下の世情について精通していたわけです。その義弘が豊臣家の要求に応えるように兄に勧めても、義久のほうは薩摩が大事なので、関ヶ原の戦いでは一五〇〇の軍勢しか割かなかったわけです。

島津氏の規模ならおよそ一万の兵は出せたはずですから、相当に渋っていたことがわかります。

こうして島津家は西軍につき、家康に敵対しました。また、関ヶ原の戦いで西軍が敗走する際に、徳川方に対して大きなダメージを与え、徳川四天王のひとり、井伊直政に深手を負わせました。井伊直政はこの傷が元で亡くなるわけですから、島津の軍勢によって討たれたに等しいわけです。

なお島津の一五〇〇の軍勢は、撤退する際に激しい攻撃を受け、生き残った数十人がかろうじて薩摩まで辿り着いたような状態でした。ところが家康はその島津家に対して、領地を減らすこともせず、その存続を許しています。

家康が敵対した相手を潰さなかった理由

関ヶ原の戦いで西軍の大将に祭り上げられた毛利輝元も、本来であれば取り潰しになってもおかしくないにもかかわらず、所領を三分の一に削るだけで許されています。

また、豊臣秀頼に対しても六〇万石の大名として存続させていて、大坂夏の陣で滅ぼすまでに一五年の歳月をかけています。

これが織田信長であれば、敵対した相手を徹底的に叩き潰すのではないでしょうか。ところが家康はそうしなかった。

手柄を挙げた者に新しく領地を与えるためには、敗軍の将から土地を取り上げて褒美の分を確保するわけですが、大名たちの不満が爆発しないように、さまざまに配慮していることがうかがえます。

何より驚くのは、天下取りが成功したからといって、譜代の家臣にボーナスを一切出さなかったことです。その後、譜代大名には領地を与えない代わりに政治に携わる役割を与え、外様大名に対しては領地を多く与えても、政治には関わらせなかったというのは、やはり家康流の統治の特徴だと思います。

※本稿は、『「将軍」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。


『「将軍」の日本史 』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)

幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。

「将軍」の日本史

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作者:本郷和人

出版社:中央公論新社

発売日:2023/3/8

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