西郷どんと山形県【後編】

日本の新しい時代の幕開けを信じ、江戸幕府の倒幕と明治維新において最大の功労者と讃えられた西郷隆盛。(さいごうたかもり)しかし、わずか10年後には新政府軍に反旗を翻し西南戦争の首謀者となり、最期は自ら命を絶つこととなった。西郷は、時代に翻弄された激動の生涯を送ったのだった。

その西郷に感銘を受けおおいに慕うようになった旧庄内藩(現在の山形県鶴岡市・酒田市)士たち。西郷の没後、旧庄内藩士たちがその思想や教訓をまとめ刊行した「南洲翁遺訓」。自らで全国を行脚しながら頒布し広めたという。これが西郷を全国に知らしめるきっかけになったと言っても過言ではない。

前編(第364号)では、西郷の生涯と山形県との不思議な縁について記したが、ここでは、山形県内に残る、西郷”ゆかり”の地と、西郷生誕の地である鹿児島県との交流について紹介する。

山形県ゆかりの地を訪ねて

1)南洲神社(酒田市)

南洲神社は国内に5カ所ある。鹿児島県鹿児島市、奄美大島、沖永良部島、宮崎県都城市、そして山形県酒田市。酒田市にある南洲神社は、西郷の遺徳を称え1976(昭和51)年に酒田市に建立された。伊勢神宮から払い下げられた用材を使用した総檜造りで銅板葺きの社殿を持つ。神社脇の南洲会館には、西郷直筆の掛け軸や資料の他、貴重な遺墨や遺品を展示している。

戊辰戦争では西郷率いる新政府軍と敵対した庄内藩。新政府軍を一度も領地に入れることなく無敗の強さを誇ったものの時勢には逆らえず最後は降伏することとなった。厳しい処分を覚悟していたものの、列藩同盟の盟主だった会津藩と比べ非常に寛大な措置だった。それが西郷の指示によることを知った藩主・酒井忠篤をはじめ多くの藩士たちが西郷に対し深い感銘を受け、鹿児島の西郷を訪れ教えを学び交流が始まったのだった。後に旧庄内藩士たちは、その教えを書き残した「南洲翁遺訓」を刊行し、西郷の教えを広く普及させるため全国を行脚しながら配布した。

南洲神社

酒田市の南洲神社。鳥居の奥に「徳の交わり」の座像が見える

また、旧庄内藩士の榊原政治と伴兼之は西郷に師事し西南戦争に参戦。ともに戦死しており、その亡骸は鹿児島市の南洲神社に埋葬されている。なお、西南戦争で敗れた西郷は賊軍の将として官位を剥奪され、大日本帝国憲法発布の恩赦により名誉が回復されることとなったが、その恩赦運動の中心が旧庄内藩の人々だったとも言われている。

そのような数々の縁があり、九州から遙か遠方の地・山形県庄内に南洲神社が建てられることとなったのだった。

荘内南洲会・水野理事長は「荘内南洲会の創始者である 長谷川信夫(はせがわのぶお)(※1)氏の意思を受け継ぎ、現在も来訪者に「南洲翁遺訓」を頒布しています」と話してくださった。

(※1)長谷川信夫・・・南洲翁遺訓におおいに感銘を受け、その思想の啓発に生涯を通して尽力。同氏が中心となり1975(昭和50)年に荘内南洲会を設立。翌年には酒田市にある自宅敷地内に鹿児島の南洲神社を分霊して同神社を創建した。

2)松ケ岡開墾場(鶴岡市)

1872(明治5)年から1875(明治8)年まで、旧庄内藩士約3千人が刀を鍬に持ち替え、月山西麓の原生林311haを開墾し桑園を造成した。この開墾事業は西郷と親交のあった旧庄内藩 中老・菅実秀(すげさねひで)が担当。西郷から助言を受けながら実行したのだという。1874(明治7)年には西郷は「氣節凌霜天地知(きせつりょうそうてんちしる)」(現代語訳:どのような艱難辛苦も、それを凌ぐ強い志を以ってあたれば、天地の神もこれを知り応えてくれる)の7文字を贈り激励している。明治8年から10年の歳月をかけて10棟の大蚕室を建設し、養蚕と蚕種の製造を開始。明治政府が勧めていた「産業報国」の一翼を担うとともに、現在の”鶴岡シルク”の礎を築いた。大蚕室5棟、本陣、新徴屋敷(庄内藩江戸取締の際、その配下となった浪士組織「新徴組」のために藩が建てた100棟の住宅のうち30棟を松ケ岡に移築し、開墾士の住宅とした)などが1989(平成元)年に国の史跡に指定された。現在は、蚕室は開墾記念館、ギャラリー、侍カフェ、くらふと松ケ岡、庄内農具館などに利用され、庄内映画村資料館も併設されている。

西郷隆盛の肖像画

鶴岡市松ケ岡地区に住む人の家には西郷隆盛の肖像画が祀られている

また、松ケ岡地区のほとんどの家には西郷の肖像画が掲げられており、西郷の思想と精神を伝承している。

3)下川の渡し場(中山町)

当時を偲ぶ下川の渡し場

当時を偲ぶ下川の渡し場
写真協力:中山町政策推進課

戊辰戦争の最中、1868(明治元)年9月20日に新政府軍を率いた西郷が幕府軍(庄内藩)と交戦するため中山町に入り、長岡山(現在の寒河江市内)に退いた幕府軍を追うため、この場所から最上川を渡って北進したという。西郷を偲ぶかのように史跡を伝える看板が設置されている。

4)中山町立長崎小学校(中山町)

1882(明治15)年10月5日、農商務卿だった西郷隆盛の弟の従道(※2)が長崎学校(当時は小中学校併設)の開校式に来賓として臨席し祝辞を贈ったという。1927(昭和2)年に制定された同小学校校歌には、「わが学びやの ひらけはじめに 西郷卿の 臨席ありし」と謳われ、今も歌い継がれている。

(※2)西郷従道・・・名前は、”つぐみち”という読み方が一般的だが、”じゅうどう”が正しいという話もある。

旧長崎学校のバルコニー

西郷卿が町民の歓呼に応えた旧長崎学校のバルコニー。現在は歴史民俗資料館に保存されている。
写真協力:中山町政策推進課

長崎小学校校歌

開校の喜びと政府の要人の来校に沸いた感動の様子が伝わる長崎小学校校歌
写真協力:中山町政策推進課

今なお続く、山形と鹿児島との交流

1)兄弟都市

戊辰戦争で降伏した庄内藩の人々に対し寛大な措置をとった西郷と、その措置に感動し、さらにその人徳に心服した藩主・酒井忠篤や庄内の人々との「徳の交わり」が、鹿児島県鹿児島市と山形県鶴岡市の交流のはじまり。それぞれ鹿児島庄内会・庄内鹿児島会が設立され、両市民間で深めてきた親交をさらに拡大し、西郷に対する敬愛の精神を育み続けようとする気運が高まったことを契機に、1969(昭和44)年11月7日、両市間で兄弟都市の盟約が締結された。

親善使節団の相互訪問、兄弟校の提携、1年ごとの中学生親善使節団の相互派遣、青年国内研修生の交流、5年ごとの盟友記念式典開催などを行っている。また、鹿児島市では、市電「鶴岡号」を運行している。

鹿児島市内を走る路面電車「鶴岡号」

雄大な桜島をバックに鹿児島市内を走る路面電車「鶴岡号」。
写真協力:鹿児島市交通局

2)姉妹校・兄弟校

1968(昭和43)年9月に鹿児島市立大龍(だいりゅう)小学校と鶴岡市立朝暘(ちょうよう)第二小学校とが姉妹校の盟約を締結。また、1975(昭和50)年8月に鹿児島市立武中学校と鶴岡市立鶴岡第二中学校とが兄弟校の盟約を締結。それぞれ3年ごとに相互訪問を実施している。

庄内柿の木

兄弟都市の盟約が交わされた1969(昭和44)年11月7日に鶴岡市から贈られた庄内柿の木。
南洲神社(鹿児島市)に植えられている。今も毎年秋になると、たわわに実をつけるのだという。

3)社会奉仕団体の交流

1965(昭和40)年5月に鹿児島西ロータリークラブと鶴岡ロータリークラブとが姉妹盟約を締結。また、1975(昭和50)年3月には鹿児島谷山ライオンズクラブと鶴岡朝暘ライオンズクラブとが姉妹盟約を締結。

4)株式会社 山形屋(百貨店)

山形屋

ルネサンス調の外観が美しい「山形屋」。
地元で愛され続けている

南九州を代表する老舗百貨店。

1751(宝暦元)年に山形県庄内地方出身の岩元源衛門(いわもとげんえもん)が創業。源衛門は、当時山形の経済を支えていた紅花仲買と呉服太物行商を興し、大阪・京都で八面六臂の活躍をしていたという。薩摩藩主・島津重豪(しまづしげひで)の商人誘致政策を機に薩摩に移り、木屋町(現在の鹿児島市金生町)に呉服太物店を構えたのがはじまり。

まだまだあります。山形と鹿児島との“ご縁”…

1)桃齢院(貢姫)

新庄藩(山形県新庄市)の十代藩主・戸沢 正令(まさよし)の正室として島津家から嫁いだのが桃齢院(とうれいいん)。父・島津重豪(しげひで)は、薩摩藩第8代藩主で、斉彬の曽祖父にあたる。桃齢院は、重豪が76歳のときの子で、2008年 NHK大河ドラマの主人公・篤姫(あつひめ)の大叔母にあたる。

2)三島通庸(みしまみちつね)

1835(天保6)年、薩摩藩に生まれる。1874(明治7)年、酒田県令(翌年、酒田県は鶴岡県に改名)に就任し、1876(明治9)年には初代の山形県令に就任。「栗子隧道」「関山隧道」などの新道開削・道路整備、「堅磐橋(かきわばし)(上山市)」「吉田橋(南陽市)」などの橋梁整備、「旧済生館(さいせいかん)本館」「旧山形師範学校本館」などの擬洋風建築の建設などを実行。強引な道路敷設や工事での工夫動員、増税などで庶民の反発を受け、「土木県令」「鬼県令」と呼ばれることもあったが、山形県の近代化の基礎を築いたと言っても過言ではない。

なお、三島が初めて赴任した時の庄内地方は、士族の反政府運動が盛んだったため、強力な統治能力とともに目に見える形での”新時代への期待”が必要だった。そのため、城下に西洋風の建物が次々と建築されたが、人々を驚かせるとともに新時代への期待を起こさせるねらいがあったという。三島によって建てられた旧西田川郡役所や旧鶴岡警察署庁舎(ともに鶴岡市)は、当時の佇まいを今に留めている。

コラム

実は、西郷は北海道とも深い”縁”があった?

庄内藩に松本十郎(まつもとじゅうろう)という人物がいた。1839(天保10)年に藩士・戸田文之助(とだぶんのすけ) の長子として生まれた。

戊辰戦争で2番大隊幕僚として活躍したが、戊辰戦争において参謀として指揮を執った黒田清隆(くろだきよたか)に傑出した才能を認められ、北海道開拓使となった。

1869(明治2)年、松本は北海道開拓判官(かいたくはんがん)として根室に勤務。税率を引き下げ、漁場開拓や学校・病院・刑務所を建設し、風紀や生活改善に努めるとともに殖産興業の推進に注力した。また、アイヌ民族の”厚司(アッシ)”という着物を羽織りアイヌ語で会話したため、「アッシ判官」と呼ばれ親しまれたという。
「開拓とは田畑を開くだけを言うのではなく、また漁業で金もうけをすることだけを言うものでもない。人の心を北海道に根付かせることこそ、その基礎だというわけです。そのためには税金を軽くし、規則などはことさら設けず、実情を詳しく調べもせずにお上があれこれ言うことではない(「蝦夷藻屑紙(えぞもくずし)」より)」と語っている。

1873(明治6)年に黒田の懇願により開拓大判官(かいたくだいはんがん)に任命され札幌に赴任。開拓使長官が不在で同次官の黒田に次ぐ地位だった。当時、札幌は膨大な負債を抱えていたため、人員削減を含む厳しい緊縮財政と新規事業の凍結という政策を断行。わずか1年半で負債を清算。また、不況のため、貧困により逃げ出す住民が後を絶たず、一時9百人以上だった人口が4百人足らずまで激減していた。そこで、松本は、故郷の旧庄内藩士を桑園の開拓に従事させたほか、製鋼業を興したり、農園を開くなど、様々な公共事業を展開。こうした必死の不況対策により次第に景気や人口が回復。松本は住民から大変信頼を集めたと伝えられている。しかし、1877(明治10)年、アイヌの移住問題から黒田と意見が対立し、大判官の職を辞して故郷・鶴岡に戻り生涯を終えたという。

一方、西郷隆盛は1871(明治4)年、部下の桐野利明(きりのとしあき)(西南戦争で西郷と共に城山で戦死)に札幌周辺を調査させ、北海道に屯田兵を配備して対ロシア防衛と開拓にあたらせるという「屯田兵構想」を考え、黒田らに建策した。西郷は廃藩置県による士族らの失業を心配し、彼らを北海道の開拓と防衛に当たらせようとしたといわれている。

西郷が推進した屯田兵は1874(明治7)年に制度が設けられ、翌年から実施された。1875(明治8)年、開拓使は、屯田兵に養蚕を勧めるための計画の一つとして、現在の札幌市北1条から北10条、西11丁目から西20丁目の地域を全て桑畑にすることに決めたのだった。開拓使長官となった黒田は、松本大判官と相談し、旧庄内藩士たちを招き開墾してもらうことにしたのだという。こうして札幌に招聘された旧庄内藩士によって21万坪という広大な土地が開墾された。現在、北海道知事公館のある辺りがこの桑園があった場所で、札幌の桑園地区は、旧庄内藩士が桑畑を開墾したのがその始まりという。札幌の礎を築いたのが、西郷や黒田、そして松本だったといえるかもしれない。

九州の南端に位置する鹿児島県と東北の日本海側に位置する山形県は、実に千km以上遠く離れている。しかし、新しい時代・明治が産声をあげた150年前、鹿児島県の西郷隆盛は、山形県にその足跡をしっかりと残し、その交流は現在まで脈々と受け継がれている。全国の皆さんに『西郷どん』ゆかりの地・山形県を訪れていただき、その息吹をぜひ体感していだきたい。

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